◇プロローグ◇

「母さん!」
 粗末なドアが音を立てて開くと、薄暗く気詰まりに空気のこもっていた部屋の中に、一気に光と風が流れ込む。ベッドの上でうつらうつらしていた病人は目を覚まし、まぶしげに目を細めた。
 そう、出入り口のドアを開けるとすぐにベッドが目に入るような、そんな狭い家なのだ。家財道具だって、ほとんど何もない。
「キリ?」
 だから、飛び込んできたキリ・エリットは一直線にべッドの上に横たわる母親のもとに駆け寄ることができた。皮肉なことに。カなく垂れた手を取るとカサカサとしていて冷たかった。働き通した手。もうカを使い果たした手だった。
 でも、顔には元気だった頃とちっとも変わらない微笑みがあった。そう、まだキリが小さい子供だった頃、お菓子が欲しいとか玩見が欲しいとかどうでもいいようなことで駄々をこねたときと同じような少し困ったような、それでいて優しい微笑み。
 そんなものを見たら、決心がゆらぐ。泣かないと、笑って見送るという決心が。
「ねえ、キリ。母さんの目を見て…」
 そう言われて、キリはやっと目をやせ細った母親の顔に向けた。
「そんな悲しそうな顔しなくてもいいのよ。だって、母さんはあなたがいてくれて、それにお父さんがいてくれて、とっても幸せだったの」
「幸せ…? 母さん本当に? だって」
 そうだ、父さんが死んでからというもの、彼女はキリを育てるために無理して働いた。元々身体が丈夫なほうじゃなかったのに。しかも、キリときたら、彼女の治療費を稼ぐなどと言って、傍らにいてあげることもせず、遠くの戦場に出かけたりした。母親がどれだけ心配するのかなど考えもせずに。
 急いで帰れば、もう彼女はこんなに衰弱している。
「本当よ。子供に嘘ついてもしょうがないでしょう?」
 彼女はいたずらっぽくクスリと声をたてた。
「それでね…、お母さんキリに最後のお願いがあるのよ…。聞いて」
 キリは注意深く耳を母親の口元に近づけた。彼女の声はどんどん小さくなっていたからだ。悪い予感が胸をよぎる。
「この…ペンダント。弟のヴォーゲンに渡して欲しいの。そして伝えて、私は幸せでした…って」
 彼女はキリが握っているのと反対の手でそのペンダントを差し出した。ぎゅっと握っていたらしく、熱を帯びた銀の鎖をキリは受け取った。
「分かった。必ず渡して、伝えるよ」
「そう、良かった。弟に逢うには…フィーデル河に行きなさい。近くにリンド村という小さな村があるところ。そして河の上で彼の名を呼ぶの。そうすれば…」
 そうやって話しているうちに彼女の声はどんどん小さくなっていき、キリは耳をほとんど触れるくらい口の近くヘもっていく。おかげで、泣きそうな顔を見られずにすむのだけが、たった一つの救いだった。そして
「ありがとう、愛しい息子」
 その最後の言葉は、ささやきよりも小さく儚く、ほとんどため息のように消えた。
「ボクのほうこそ…、ありがとう、お母さん」
 キリの決心は、かろうじて崩れなかった。

 その三日後。
 母親の慎ましやかな葬儀をすませたキリは再び家を出た。託されたペンダントをしっかりと握りしめて。

 

◇船上の旅人たち◇

 フィーデル河は水量豊かに流れ、深く穏やかな水音とともに船腹を叩く。そのリズムに合わせて船体はゆっくりと揺れるので、船縁に寄りかかって目を閉じていると、まるで揺り椅子にでも揺られているかのように心地いい。
 しかし、ピュウと不意に吹きつけた風の冷たさに束の間の心地よさはすぐに破られた。
「いけねっ、このまんま寝たら風邪ひくとこだったな」
 ぱちっと金色の目を開いた青年が両手で肩を擦る。すぐ傍らで足を折ってぺたんと座って、青年のほうを見ていた少女がその様子にくすくすと笑った。
 子どもじみた小さな手を口元にやりながら笑う少女にわずかに口を尖らせてみてから、青年ジェノ・シールは息をつきながら目を逸らした。
 少女と知り合ってからもう一週間は経つが、まだ一度も言葉を交わしたことはない。というのも、どうやら彼女は口がきけないらしい。何かを尋ねると − 例えば、
「どこから来た?」
「名前はなんていうんだ?」
 少女は一生懸命に答えようと口を動かす。しかし、その口から声になった言葉は出ない。たった一つ、名前だけはかろうじて口の動きから分かった。その名を言い当てたときの少女の笑顔ときたら、春のはじめに雪を割って顔を出す花のようだった。
 それにしても彼女は謎だらけだ。いつのまにかジェノについて来ていて、どこに行くにも離れようとしない。どんな些細な用事でも、すぐ近くに行くのでも、「来るな」と言っても。一人置いて行かれるのを恐れるように、すがりつくような不安な眼差しで彼を見上げる。
 終いにはジェノはあきらめた。彼女がしたいようにさせることにした。
 そんな風になって一週間。最初のうちは気味悪く思っていたジェノも、いつのまにか慣れ、今ではなぜか不思議に心が安らぐようになっていた。
 それにしたって、好奇心は尽きない。いやむしろ彼女に関する興味は増すばかり。
「リューネ」
 呼ぶと、少女は首を傾げた。見上げる薄青い瞳は、青空を写す深い湖を思わせる。
 さて、今日はどうやって会話を試みようかと思案し、いいアイディアが閃いてジェノはニッと笑った。尖った犬歯がちらっとのぞく。
「見てろよ」
 不思議そうな表情のリューネがのぞき込むその目前の甲板に、彼は指で文字をなぞった。そしてリューネの表情の変化を待つ。しかし少女の不思議そうな顔には相変わらず訳が分からないという表情が居座っていて、ジェノは意気消沈してしまった。がっかりしたジェノを見てもっとがっかりしたのはリューネで、すまなそうな泣きそうな顔になって俯いてしまう。分からない自分を責めているのは明白だった。
「分かった! もう一回やってみよう」
 ジェノは、リューネを元気づけるためわざと大きな声を出し、腰を浮かせた。「何をするの?」声が出なくても、リューネは表情でそう言った。
「いや、手に水つけて書けば、字がちゃんと残るからな。読みやすいだろ」
 少女がはらはらして見守る前で − 当然だ、ジェノは鋼でできた重い鎧を着ていたのだから − 青年は船縁から身を乗り出して腕を伸ばし、水面に手を差し伸べた。ひんやりとした水の冷たさを感じた、その途端。
 心臓が大きく鼓動を打った。
 何かひどく重要なことに思い至った気がした。
 いくつもの形の定まらないイメージが一時に浮かんで、そしてまたすぐに逃げていってしまう。
 そんなことが全部、一瞬のうちにジェノの中を駆け抜けた。後に残されたのは…
(俺、前に、おまえと逢った…? 水辺…いや川辺…?)
 呆然とした表情のまま、濡れた手を見つめるジェノ。その呟きはリューネの耳には届かない。ただ彼女は、突然様子の変わった彼を心配そうに見つめていた。その視線に気づいたジェノはあわてて心に残ったもやもやを振り払う。
「なんでもないよ。ああ、もうすぐリンド村に着くみたいだな。そろそろ、ゲルネの様子見てこなくちゃ。馬が怯えるからって、荷物と同じ所に押し込めるなんてひどいよなあ、まったく」
 そして彼が立ち去ろうとすると、リューネもまた立ち上がった。どこにも逃げやしないのに、やれやれ。また小さく息を吐きながら視線を反らすと、やけに霧が濃いのが目についた。ほとんど岸が見えないほどの濃い霧だ。いつのまにこんなに濃くなったのだろうか。
「何だか、霧が濃くなったな」

「霧、か」
 同じ船の反対の縁で、杖を握るやせた男が同じ霧を見通して顔を歪めた。
 霧が立ち込めたのとほぼ同じくして、気温もぐっと下がったようだ。男は寒そうに両手でローブの上から腕を擦りながら、油断なくあたりに注意を向けた。
 彼の名はシグル。柔和そうな顔立ちをした、四十代くらいに見える男である。どう見ても、運動よりは頭脳労働を好むタイプの人間に見える。しかし、外見から分かるのはそれくらいのもの。いつでも穏やかな表情でいて、今のように油断ない目つきをしたとしても、それに気づく者はほとんどいない。
 彼が見たところ、この船の乗客は皆ただの旅人で、彼が気に留めるほどのことはないようだった。それよりも…
 彼がこれからの算段をし始めると、船も減速を始めた。
「とりあえず、村に行ってみますか」

 

◇ティナ◇

 いっそう濃くなった霧がオレンジ色に輝いて視界を塞いだので、日没が近いことが知れた。吹く風もますます冷たくなる。夜になる前に村に着けるだろうか? キリが不安を覚えたとき、ようやく何か人の手による建物が見えた。といってもこの著しく悪い視界の中、そのみすぼらしい建物は予想していたよりも近くに突然現れたのだが。
 それは川船のささやかな桟橋に隣接する掘っ建て小屋で、ごつい腕をした角張った初老の男が、苦虫を噛み潰したような顔で立ちふさがっていた。霧を割って現れたキリを目に留めて腰を引く。
「こんにちわ」
 キリは敵意がないことを伝えようと、笑顔で話しかけた。
「リンド村というのは、どっちなんでしょうか?」
 そのたくましい腕で長年船を操ってきたに違いない男は、表情を緩めないまま顎で指し示した。
「そうですか、ありがとうございます」
「若いの、歩いて来たってのか?」
 船頭の声は長年の風雨に洗われて節くれだっていた。キリは去りかけていた足を止めて振り向き、大きくうなずく。
「船に乗った連中も皆村に向かった。急げば追いつけるかもしれん。村に行きたいってんならな」
「ありがとう」
 キリは笑った。すると船頭のほうもほんの少し頬を緩ませた。こういうときキリが見せる表情は屈託がない。
 確かにその船着き場からリンド村ヘははっきりとした道が刻まれていたし、そんなに遠くもなかったので、彼は日没よりもだいぶ余裕をもって目的の村に到着した。だが道中で誰かに追いつくこともなかった。
 だがしかし、たどり着いた村も暖かい場所とは言いがたいようだ。川縁に立ち込めていた霧はこんなところにまで蔓延していて陰気な白い影を家々に落としているのだ。
 それに、なんて寂しいところなのだろう。日没前だというのに、村の辻には行き交う人の姿がそれこそ人っ子一人見当たらない。明かりの漏れない窓、打ち捨てられた桶の転がる井戸端。風がどこかの剥がれかけた屋根板を叩く音ばかりが、むなしく聞こえる。
 キリは人の発する温もりを探して歩き、やがて食堂兼宿屋を見つけた。初めそれを見つけたときキリは少なからずぎょっとした。その宿の前に、赤茶色の奇妙な動物がうずくまっていたからだ。近づいてみれば、それはまだ幼い竜だと知れた。装具の付いた騎竜。キリは竜に好んで乗るような変わり者は今までの人生の中で一人しか見たことはない。
 中からは人のしゃべり声が漏れている。彼は扉に手を掛け、大きく開いた。
 風が吹き込んだ。
 テーブルが三脚とカウンター席で構成された広くない食堂は人でごった返していた。少なくともこれまで寂しさに目が慣れていたキリにはそう見えた。しかも何やらもめているようだ。
「すみません、部屋にお泊めすることはできないんです」
 店の主人らしい男が申し訳なさそうに言ったので、その場にいた5人は口々に落胆の声を上げた。5人が5人とも、先ほどの船着き場まで川船でやって来た旅人のようだと見て取れる。
「どういうことなんだ?」
 と、その中の誰かが問いただそうとして、言葉を詰まらせた。そして激しく咳き込む。体をニつに折り曲げて、床を転げた。そのただならぬ様子に人をかき分けてキリは走り寄った。苦しそうに咳き込む度に男の口から白いまがまがしい霧が吐き出されているのを、キリは目の当りにした。
「白霧病だ」
 しゃがみこみ、倒れている病人の肩を支えようとしているキリの後ろで、誰か若い男が呟くのが聞こえた。その病の名前を彼は聞いたことがない。
「どこか、医者とかいないんですか?」
 呆然と、深い恐怖で立ちすくむばかりだった店主を見上げてキリは尋ねた。店主はがくがくと頷きながら「きょ、教会に病人を集めてる。ティナさんという医者が診てるんだ」と答えた。
「じゃあボク、この人を教会に連れていきます」
 キリは病人の腕を自分の肩に回し、引っ張り上げた。キリ自身としてはどうということのない作業だったが、傍らから見て危なっかしく見えたようだ。彼は実際よりも華奢に見えるので。
「大丈夫か?」
 声を掛けてきたのは、先ほど「白霧病だ」と指摘したのと同じ若者だった。礼を言おうと相手の顔を見て、キリはアッと声を上げた。
「ジェノさん!?」
 だが相手はきょとんとしたまま訝しげな顔で首を捻ったのだった。
「おまえ、誰だ?」
「ボクですよ、キリ・エリットです! あの時、一緒に戦ったじゃないですか!」
「俺はジェノで、キリは知ってるが…。確かに似てるけど…」
 話がややこしい方向に向かいそうになったとき、ジェノの袖を連れらしい少女が引っ張った。病人は一刻の猶予もならない状態に見えた。
「とにかく、話は後だな。リューネ、病気がうつるといけないからおまえはここで待ってろよ」
 キリも、それで依存はない。

 ぐったりとした病人をニ人で運びながら、途中ジェノは渋々キリ・エリットのことを認めたが、それでも「おまえ変わった」と言い続けた。結局納得はできないのだ。
「前はもっと鋭い感じだった。半年も経ってないのに、よくそんなに変われるもんだな」
「ボクはそんなに変わってないと思いますけど」
 水掛け論は途中で立ち消えた。目的の教会はそんなに遠くはなかったからである。
 教会は他の民家よりは大きく、古いわりにはしっかりしているようだったが、村の他の場所と同じく陰鬱な白い霧をまとっていた。いや、むしろ他の場所よりも濃いかも知れない。その理由は中に入ってすぐに分かった。
 正面の扉をノックすると中から「どうぞ」という返事があり、キリが開けた。中に入ったニ人が見たのは絶望的な光景。床一面にカなく転がった人間のからだ。こちらで、またあちらで時折苦しげに咳き込む音が響き、そのたびに体の中から搾り出された白い霧が煙のように立ち上る。その煙はランプの弱々しい明かりをまがまがしく照り返しては消えて行く。
 それ以外に動いているものといったら、たった一人の医者が足の踏み場もないほど並べられた患者の間を忙しく歩き回っているだけだ。
「どうしたんです? ああ、また…」
 そのたった一人の医者はニ人のほうを見、ニ人か抱えた病人を見、表情を曇らせたがすぐに気丈な笑みを取り戻した。無理矢理の笑いだが。もし笑うのをやめたら、疲労の波が堤防を打ち壊し、彼女まで絶望の淵に引きずり込まれてしまう。そう、医者は細い腕をした女で、ニ人よりもやや年上に見えた。
「息者さんですね。ありがとう。こちらに連れてきて頂けますか」
「はい。あなたがティナさんですよね」
 キリとジェノは床に横たえられている病人を踏まないように気をつけながら奥ヘと進んだ。跨ごうとすると急に咳き込み出したりしてぎょっとさせられる。
 だが。
 ニ人がティナの前に病人を下ろしたとき、急にその病人は苦しげに、それもただならない様子でげふげふ言いだしたのだ。のたうち回り、喉を両手で押さえ、あまりの息苦しさに両目を剥きながら、彼は鍛冶屋のふいごよりも大量の霧を吐き出した。嫌な音がした。血を吐くよりも痛々しい音。
 そしてそれが静まったとき、もう病人は動かなくなった。息もしていない。かっと見開いた両目、苦しげにゆがんだ口もそのままだ。
 ティナは暗い目をして冷静に脈をとり、目をのぞき込んで溜め息を吐いた。病人は死んだ。
 その事実に、キリとジェノの反応は正反対だった。キリはその普段は明るい空色の目をそっと伏せ、唇をかむ。薄茶色の髪が目にかかり、表情を隠す。死を目の当たりにするのはもうたくさんだ。
「この病気って、そんなに簡単に死ぬのか? かかってすぐに?」
 ジェノはいきなり喧嘩腰だ。決してティナを責めているのでも、手遅れを悔いているのでもないのだが。
「いえ、発症してから徐々に悪くなって、やがて死に至る病です…。この方は体カが落ちていたのでしようね。すみません、私にも白霧病の原因も治療法も分からないんです。私にできることはただ、進行を遅らせることくらいで」
 ティナはいつのまにかまた微笑みを取り戻していた。今度は明らかな自嘲。目は暗いままだ。
「じゃあ…」
 ジェノは更に言い募ろうとして、さすがに言葉を飲み込んだ。「じゃあ、こにいる奴は全員死ぬのか? ここにいたら俺たちも死ぬのか?」 それは彼女に言ってもどうしようもないことだ。それに、彼はふと目に留めてしまった。ティナの吐息にも、微かに白いものが混じっているのを。だから、ジェノが代わりに言ったのはもっと穏やかな言葉。
「わかった。でもあんたも休んだほうが良くないか。疲れてるみたいだぜ。体カがない奴からやられてくんだろ」
「ええ、でも」
 今度は女医は毅然と背筋を伸ばした。
「私が休んでいる間も病気は進むんです。休んでなんかいられません」
「でもな、あんたが倒れたらその後は誰が病気を遅らせるんだ!? あんたが倒れたら、今休むよりたくさん死ぬぜ!」
「それでも、休むわけにはいかないんです。今休むわけには…」
 ティナが余りに強情なので、ジェノも声を荒げるのをやめ、ふーっと長く息を漏らした。
「わかったよ。じゃあ俺も手伝うから。できることがあったら何でも言ってくれ」
「ありがとう。あなたも」
 あなたもとはいったい誰のことだ、キリだろうか?ジェノの疑問の答えはすぐに出た。強情な娘はもう一人いたのだ。ついてくるなと言っても絶対に離れない少女が。
 リューネはすっと彼の横に進み出て、決心と誇りに満ちた笑顔でジェノを見上げた。

 キリにはリンド村を訪れた目的があり、残念ながら教会で手伝うことは出来なかったが、目の前で亡くなった旅人を埋葬するのだけは引き受けた。
 物思わしげにロ数少なく作業をした少年だったが、去り際にティナに尋ねた。
「ティナさん。ヴォーゲンという人を知っていますか?」
「ヴォーゲン?…知らないわ。ごめんなさい。私もここの住人ではないの。白霧病が発生したと聞いて、来ただけだから」
 いつのまにか日はとっぷりと暮れ、西の空だけが名残惜しげに微かに明るい。
 夜闇に背中を押されるようにして、キリは一人、教会を後にした。

 

◇白き夜闇・前編◇

 そぞろ歩く夜、村に明かりはなく、しんと静まり返った闇を映して、ただ不吉な霧だけが往来に漂っている。シグルはその霧の塊を避けるように、慎重に歩を進めた。
 彼は、かつてかの天慧院に籍を置いた経験があり、白霧病がただの疫病ではないということを知っていた。それに、この深く不吉な霧にも浅からぬ因縁がある。それは決して愉快な思い出ではない。苦々しく、また恐怖に彩られた一枚絵のようなもの。
 目の前で霧を吐いて倒れる男を見たジェノとキリが訪ねたその後に、シグルが教会を訪れたのにはそういった理由があった。だが、その訪問もあまり良い結果には終わらなかった。たった一人果敢に病気に立ち向かう女医も、この病について詳しいことは知らなかった。
 ただ一つ、シグルが見いだしたのは、女医のもとで手伝いをしていた青年だ。確か宿屋から教会ヘ、病人を運んだ若者の一人。彼の褐色の額には、はっきりとあるしるしが現れていた。"フルキフェルの聖痕"。彼がその身に三つの"聖痕"を持つ"刻まれし者"と呼ばれる存在であるのは間違いあるまい。シグル自身と同じに。
 彼は、杖を引きずりながら川辺ヘと向かっていた。確かめたいことがあったからだ。フィーデル河に近づくにつれて霧はだんだんと濃くなってゆく。水辺に特有の止まない風が彼の黒髪をかき乱し、ローブを翻すというのに。水面と地面との温度差が生む風などでは、この悪意に満ちた障気は吹き払えない。
 豊かな水音絶えない川辺に立つと、伸ばした腕の先、自分の指すらかすんで見えるほどの霧が立ち込めていた。フィーデル河のこのあたりには中州があると聞いたが、それを見通すことなどとてもできそうにない。彼は最大限の注意を払いながら、川縁をゆっくり歩いていった。
『来たか、贄よ。待ちかねたぞ』
 はじめ、その声は空耳か、内なる恐れが聞かせた幻聴に思えた。だがそう思うことこそ逃避に他ならない。悪意ある何者かが直接心に語りかけているに違いない。シグルは目をすぼめ、心を澄ませて内なる声に耳を傾けた。
『我が名はダルセフォン。死を呼ぶ霧はすべからく我の統べるもの。我は死の支配者なり』
 彼の声は恐怖と屈辱に彩られた記憶の中のものと寸分違わない。あの時…十数年前のこと。
『貴様が"刻まれし者"として目覚めることを我は見通していた』
 その日も今同様、濃くまがまがしい霧があたりを包み、景色を歪めていた。単身川辺−フィーデル河ではない、もっと小さな川辺で夜を明かしていたシグルは、一矢報いることも叶わず、それどころか襲撃者の姿を認めることすらできぬうち、完膚なきまでに打ち倒されていた。いったい何が起こったのか? それすら、ようやく理解できたのはたまたま通りがかった漁師に助け起こされた後だった。ただ一つ、はっきり記憶に刻まれているのは…身体を丸め、物のようにカなく転がって意識を手放そうとする彼の上に降ってきた、冷たく、冷笑的で、しかし甘く囁きかけるような声。『疾く、目覚めよ。そして我の元ヘ来たれ、我の贄となるべき者よ…』
 今、同じ声は同じ要求を繰り返した。
『疾く来たれ、我が贄よ。その聖痕を我に捧げよ。我が霧がこの地にある全ての生命を吸い上げるその前にな…』
 くつくつと含み笑いが空気をゆらす。声は心の内に直接働きかけるものではなかったのだ。それは確かに空気を震わせる肉声だ。細かな無数の霧の粒子一つ一つが、蚊のささやきよりも小さな声でいっせいに囁く。たとえ耳を塞ごうとも、それは恐るベき浸透力で心に直接響く声とまごうほどに、耳に、脳裏に染み込んでゆく。
 含み笑いの残滓を残しつつ、声は遠ざかったが、シグルはしばらく動かずにいた。たっぷり呼吸ニ十回分ほどの時間が過ぎてから、ようやく長く長く息を吐く。杖を握ったまま固まった冷たい指を開き、握り直す。
 殺戮者ダルセフォン。死の霧を支配するもの。
 倒さなければならない。村を救うために。彼自身の奪われた安息を取り戻すために。

 騎竜のゲルネに水を飲ませるためにと称して川辺に向かったのはまったく口実だった。それをジェノが自覚しているかどうか。
 人気のない、静まり返った通りをニ人と一頭が歩いて行く。虫も、獣も鳴かぬ、耳鳴りがするほどの静寂の中、下草を蹴りつけ、地面を踏む長靴の革だけが鳴る。そして、蹴爪が大地を優しく蹴る音も。
 その、三つの足音に河の流れる絶え間なく揺るぎない音が混ざったとき、ジェノはほっとして声を漏らしそうになった。
 川縁には相変わらず、夜闇の中ですら白く蟠る霧がこれでもかというほど立ち込めている。教会から借りてきたカンテラのちろちろと揺れる明かりを反射させて、闇よりも暗く人の目を覆うのだ。午後いっぱいから夜に掛けて、どちらを見ても視界を塞いだ霧。もう慣れきってもいいだろうに。その冷たさ、不吉さ、陰欝さは油断をすればいつでもジェノの背筋を這い上がった。
 それでもその下を流れるフィーデル河の流れは変わりなく優しい。(飲ませても平気なのか?)一瞬、恐ろしい病のことが脳裏を過ぎったが、竜は素直に流れに口を寄せ、盛大な音をたてて喉の奥に水を流し込んでいる。とりあえず、安心できるだろう。
「…俺さ」
 ついに沈黙に耐えきれなくなって、青年は重い口を開いた。リューネはびっくりしたふうもなく、促すように彼を見上げる。
「おまえに、前に会ったこと、ある?」
 少女はこっくりと頷いた。心の中までも見通すような神秘の湖の青い瞳がまっすぐに彼の金色の瞳をのぞき込んでいる。その目に、笑みと涙、不安と期待という相反するニつの感情が揺れているというのに、ジェノは気づかない。
「ごめん、俺、思い出せないんだ。忘れちゃいけないことだったとは思うんだ…ここまで出てる」
 自分の内面に目を凝らすことで手一杯だからだ。両手で何度も何度も髪を激しく掻き上げる。それが、癖なのだ。
「河に関係がある…どっかの河で会ったんだろ? 何か、何かヒントでも…」
 言葉がなくても、その表情の中に肯定か否定を見いだそうとリューネに目を向けた途端、ジェノの目はリューネの双眸に捕まった。ちょうど、暗がりの中で、燃え盛る篝火に目が吸い寄せられるように。
 そして怒濤のように、今慶ははっきりとした思いが、光景が、物語が彼の心に流れ込んできた…!
−甲板から投げ出される体。叩き付けられる鈍い痛み。
−鉛のように沈む。遠ざかっていく水面。
−じわじわと染み透る冷たい水。鼻を塞ぎ、口から忍び込む。
−霞む目、淀む意識の中、なぜかはっきりと見えた青。優しく強い腕。それは美しい少女の…
「はぁっ!」
 ジェノは水から上がったときのように、勢いよく息を吐きながら顎を跳ね上げた。それはまったく記憶の追体験。忘却の深遠からの帰還にも似ていた。
「分かった。思い出した。あの時…そっか。助けてくれたんだ。ありがとう。ごめん。こんな大事なことを忘れてたなんて」
 生まれ変わったような気持ちで、ジェノは彼女を見た。まっすぐに。リューネもまっすぐに見返す。今こそ、純粋な喜びにあふれた瞳で。

 

◇白き夜闇・後編◇

 村に蔓延した死の病。目の前で失われた命。そういったものが、キリを柄にもなく焦らせた。
 もしかしたら、叔父であるヴォーゲンという人物はもう死んでいるかも知れないとも思う。もしそうならば、いまさら仕方のないことだ。だが、もし今まさにもしくは明日にも、死に瀕しているのだとしたら? 今夜のうちに探し当てられたら間に合い、明日になったら間に合わなかったら?
 そんな考えはいかにも馬鹿げている。でも、キリは恐れていた。母の最期の頼みさえ聞き届けられなくなることを。
 そうして、彼は日が暮れた後も村中の家々を回ってヴォーゲンという人物について尋ね続けた。しかし、手がかりすら得られなかった。
 キリは一軒一軒の戸口に立ち、ノックしたが、開けてくれる家のほうが希だった。夜分の客を警戒しているのか、戸を開ける気カも残っていないのか、はたまた住人はすでに事切れているのか、施療院となった教会にいるのかも知れない。戸を開けた村人も、疲れ切り暗い目をして、口は重たかった。キリが、誠実に丁寧に尋ねても、皆よそ者のために知恵を絞り、記憶を掘り起こす労を惜しむほど疲れきっていた。いつ襲い来るかも知れない病に。晴れない薄ら寒い霧に。死の予感に。そして皆口を揃えた。
「知らないねぇ」
「聞いたこともない」
「物知りの婆さんが生きてたらねぇ」
 そして表面ばかりはすまなそうな顔を作り、また戸を閉ざすのだ。あの船着き場まで足を伸ばし、ごつごつした船頭にまで尋ねたが、結果は同じこと。霧濃い川縁を歩く足どりは重かった。
 地面に落ちた視線の端に、ふとちらちら揺れる光を見た気がして、彼ははっと顔を上げた。注意を向けると、話し声も聞こえる。若い男の声だ。こんな時間にいったい誰が? キリは表情を引き締め、なるたけ足音を殺しつつ近づいた。
 ある程度近づいたところで、はっきりと会話が聞こえ、彼の警戒心は氷解したのだが。
「助けてくれたんだ。ありがとう。ごめん。こんな大事なことを忘れてたなんて」
 それは紛れもない、キリのかつての戦友の声に違いない。誰と話しているのかは分からないけれど。安堵のあまり、深く考えることもなく駆け寄り、声を掛けようとして「ジェ…」キリはあわてて言葉の続きを飲み込んだ。しかし、遅すぎた。
 きらきらと輝く瞳で言葉もなく見つめあっていた男女は、突然の乱入者にびっくりして、あるいは照れくさくなって、あわてて顔を背けてしまったのだ。ジェノは、困惑と幾分かの怒りとほんの少しの安堵の入り混じった複雑な表情でキリを振り返った。仕方なく、キリは何も見なかったことにして、無邪気に見えるはずの笑顔で駆け寄った。
「ジェノさん、何やってるんですか? こんなところで」
「見れば分かるだろ。ゲルネに水を飲ませに来たんだよ」
 ジェノの答えはぶっきらぼうだ。キリは友人の騎竜を見たが、赤茶色の鱗の竜はすっかり満足した様子で、あくびなどしている。そういえばこの竜、ゲルネはまだ竜としてはほんの子どもなのだということを、思い出さずにはおれない幼い仕種だ。
「しかし、夜の川辺は危険ですからね。帰るなら、お気をつけなさい」
 もう一つの声があさっての方向から飛んできて、ジェノは更にぎょっとした。霧を割って現れたのは、ローブをまとったやせた男だ。キリやジェノ、リューネと、親子ほども年が離れていそうだが、なぜか彼らはその男に年長者ヘの敬意というものよりもむしろ、もっと親しい印象を覚えた。
「あんた?…確か、シグル?」
「おや、意外ですね。私のことを覚えていましたか、隣の部屋のジェノ君」
 キリは知らない顔だが、どうやらジェノとは顔見知りらしい。顔見知りと言っても、十年近くも前の話なのだが。シグルは目を細めて、その場の三人と一頭を見渡した。
 そして、口元がほくそ笑んだ。
「とにかく、このあたりは物騒ですよ。さっさと村に戻ることをお勧めしますね」
 その言葉の中の微妙なからかいのニュアンスに、ジェノが息を呑む。かっとなったが言い返すこともできない。「ああ、帰るよ! じゃあな」乱暴に告げると竜の手網を引いて足早に立ち去った。少女があわてて追いかける。
「あなたもですよ」
 この展開に半ばぽかんとしていたキリにも、シグルは言った。
 誰も気づかなかったが、その口元とは裏腹にシグルの目は真剣そのものだった。

 夜明けが近く。
 ずっと眠った振りをしていたリューネはすっと目を開けた。音を立てないように半身を起こす。さしも働き者のティナ女医も疲れきって眠ったようだ。
 高い位置にある教会の窓から漏れる、柔らかで微かな明かり。ずっと閉じていた目にはそれでも充分に明るい。すぐ隣りで丸まって熟睡しているジェノの普段よりも幼く見える寝顔がはっきり確認できた。
 沈黙を保ったままそれを見つめるリューネの目に、さまざまな思いが浮かんでは消えた。できることなら、今このまま時間が止まってしまえばいいのに。しかしそれはとうてい叶わない願いだ。
 少女は、まるで駄々をこねる子どものようにことさらゆっくりと毛布をはねのけ、立ち上がった。出かけなければならない時間だった。
 少女が足を向けたのは霧濃い川縁。ひときわ大きく平たい一枚岩が河の上に張り出し、あたかも白いカーテンに包まれた舞台のようになった場所。リューネは岩の上に立ち、川面を見つめる。その表情は舞台の上の役者というより、処刑台の前の囚人のよう。
『その顔では』
 その恐ろしい声が少女の背筋を震わせた。あたりにたゆたう霧の細かな粒子一つ一つがささやき、重なり合ったおぞましい声音。
『そなたの想いはあの男には伝わりはしなかったのだな』
 やはり、と言外に匂わせる、侮蔑しきった調子。少女は頬を張られたようにうなだれ、じっと動かない。
『河に生きる者の想いなど、地上を這う者どもに通じはしない。愚かな…。そなたももはや泡となって消えるさだめ』
 少女ははっと顔を上げた。困惑と恐れにその双眸を見開いて。霧の声はさもおかしそうに、しかしあくまでも冷ややかにくつくつと笑う。
『そなた、まさか我がただ親切心から、そなたにスマラクトを与えたとでも思っていたか』
 スマラクト。その名を聞いて、少女は反射的に胸元を押さえた。恐る恐る右手でまさぐり引っ張り出したのは、銀の鎖に繋かれた、親指の爪ほどの大きさの緑の宝石。妖しく強い光をたたえて時折きらめいている。
『そなたは所詮、"刻まれし者"をおびき寄せ、あのいまいましきザルム王を苦しめるための餌に過ぎぬ。そして今、そなたの役目は終わった』
 それは恐ろしい宣言だった。その声を合図にしたかのように、少女の手の中の宝石から光が消え失せ、代わりにむくむくと白く濁った霧がわきあがる。放り出す暇さえなかった。
 勢いよく噴き出した霧がリューネの全身を包み…それが風に散ったとき、そこには何もなかった。
 何も。

 

◇嘆きの河◇

 太陽が弱々しく霧の向こうに姿を現した。
 その光が屋根の隙間を通して顔の上に降り注ぐなり、キリは起き出した。どうせ、朝寝しようにも気が逸ってしまって眠ることなどできない。
 キリが一夜を明かしたのは村の外れにある空き家だった。ここが空き家になったのはそう遠くない過去だろう。空き巣のようで気が引けたが、宿屋は泊まり客で、教会は病人でいっぱいなのだからしょうがない。
 眠る前、キリは母のことき思い出した。キリが幼く、母が若かった頃から順に、一つ一つ噛み砕くように。そして、今際の悲しい思い出を振り返ったとき、キリはうっかり見落としていたことにいき当たったのだ。母はこう言ってはいなかったか。
「河の上で彼の名を呼ぶの。そうすれば…」
 そうすればどうなるのか? それを試してみたくて、明るくなるのをうずうず待ちこがれていたのだから。
 朝の光に洗われて、河は控え目にきらめいていた。霧はますます濃くなっているようだ。そして吹く風はますます冷たくなっている。その冷たいばかりですがすがしくもない風を思いきり吸い込み、キリは叫んだ。初めはためらいがちに。次には思いきり。
「ヴォーゲンさん…ヴォーゲンさーん!」
 しばらく何も起こらず、こだまが消えてしまうと、水が岸に打ち寄せる優しい音だけがあたりに満ちる。キリががっかりしかけた、その時。
 初めは、岸辺に打ち寄せる細波の様子が変わっただけだった。細かい、不安定なスープ皿の中のスープが立てるような波が打ち寄せていたかと思うと、それは何の前触れもなく白い波頭を上げる激しいものに変わった。飛沫が跳ね、キリの顔にかかる。キリは期待に空色の目を見開いた。何が起ころうと、何一つ見逃すまいと。
 そして、それは現れた。
 流れを裂いて現れた。青みを帯びた銀色の鱗に覆われて、弱々しい太陽光を幾重にも反射する巨体。鋭い牙を備えた尖った口。叡智をたたえた黒い瞳。もし彼が直立する種族であったら、その体躯は見上げるばかりだっただろう。
「さ、魚…」
 キリは驚きのあまり、自分が何をしていたのかを忘れかけた。無理もない、キリの目の前に巨体を横たえて、浅瀬からその半身を大気の元にさらしているのは、巨大な鮭だ。体長はキリの倍以上はある。そして、頭部にはまるで人間の支配者がかぶるような、シンプルだけれど重々しい黄金の王冠を乗せている。荘厳で神秘にあふれた姿だった。
「我を呼ぶ、そなたは何者か」
 巨大魚は、その嘴にも似た口を開いた。やや聞き取りにくいものの、紛れもなく人が話す言葉だ。重く低い威厳ある声でゆっくりと問う。キリは目を瞬かせた。
「我ってことは、あなたがヴォーゲンさん…ですか?」
「いかにも。余は水界を統べる者、大いなる流れの監視者、金色の覇者、ザルム王"川霧彦"ヴォーゲンなり」
 巨大魚、ザルム族の王は重々しく答えた。キリの掌ほどにも大きい黒く丸い右目が咎めるようにキリを見た。礼儀を知らぬ地上の若者を無言のままに責めている。キリはようやく我を取り戻し、大きく深呼吸して落ち着いた声を出そうとした。
「ボクは、キリ・エリットと言います。母、リューシアからあなたに、ゆ、遺言を伝えに…」
 しゃべりながら、キリはやっと疑問に思った。母さんの弟がザルム族ということは、母さんもザルムだったのか? 答えは明白だ。ショックだった。最初にヴォーゲンを見たときの数倍。
 しかし、ショックを受けたのはヴォーゲンも同様だった。ヴォーゲンは、ザルム族とは初めて出会うキリにも分かるほど、表情を動かした。その目は人間と同じほど饒舌だった。
「そなたが、リューシアの息子だと言うのか。そして我が姉は亡くなったと…」
 そして重苦しい沈黙が満ちた。キリは居たたまれない気分になり、ついには沈黙を破った。とにかく、母の願いは叶えねばならない。
「ええ、母はあなたに伝えて欲しいと言っていました。『私は幸せだった』と」
「幸せだった? 姉は人間にさらわれたのではないのか」
「え…?」
 当然のことだが、キリは自分が生まれる前のことは何も知らない。父と母がどうやって出会い、愛し合って、家庭を築いたのか。だが…
「ボクは詳しいことは知りません。だけど、母は、確かに父を愛していたと思います。ボクの…子どもの目から見て、ですけど」
 まっすぐ、黒々とした右目を見つめ、キリはきっぱりと言った。ザルム王は深く長く息をつき、そしてどうやら気持ちを緩めたようだった。
「そなたの言葉を信じよう。姉が幸福であったのなら、我が心の痛みも薄れようというもの。よく知らせてくれた」
「あ、そうだった。あと、これを渡すように言われていました」
 キリがあわてて取り出したのは、親指の爪ほどの大きさの縁色の宝石だ。銀の鎖で綴られて、ペンダント状になっている。あの日、母親に託されてから、無くさぬようにと肌身離さず持っていたものだ。横から射す白い陽光を跳ね返してキラリと光った。ヴォーゲンはそれを見ても、今度は感情を乱されなかった。
「受け取ってください」
「ふむ…。だがそれはそなたにとっても母の形見であろう。確かに貴重なものではある。だが、強いて受け取らなければならぬものでもない。若者よ、そなたが持っていても良いのだぞ」
 そう言われて、キリの空色の目に迷いが浮かんだが、すぐに彼はきっぱり首を振った。
「いいえ、受け取って欲しいんです」
「そなたはそれが何であるのか知っているのか?」
「いいえ、全然」
「それはスマラクトと言うものだ。…確かに、人の子にとっては無用なものかも知れぬ。わかった。姉の意向を不意にはすまい」
 キリが差し出すと、ザルム王は胸鰭で器用に鎖を受け取った。
「ところで、あの、聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「白霧病のことです。村人が白い霧を吐きながら死んでいくんです。この白い霧と関係があるんでしょうか? 何か知っているんじゃないですか?」
 すると巨大な魚は、それと分かるほど疲れた様子で答えた。
「いかにも。このまがまがしき霧こそ全ての元凶。我もこの霧が他のザルムたちを侵さぬようにすることしかできぬのだ」
「どうしたら霧を晴らせるんですか? この霧を出している奴がいるんですね? そいつはどこにいるんです?」
 するとザルムの王は憂いに満ちた様子で身をくねらせた。巨体がゆっくりと、後退して行く。河の深いほうヘと。
「矢継ぎ早に質問を繰り返すのは、礼儀に叶っているとは言えんな、地上の若者よ。我が甥にあたるものよ。だがそれも、"刻まれし者"の帯びる宿命の一端なのか。詮なきことよ」
 ヴォーゲンの姿は今や、深い流れの中に沈み込んだ。顔だけが、水面の上に突き出されてキリを見つめていた。若者は地面に手を付いて、異貌の叔父に少しでも近づこうとした。疑問は増えていくばかりなのだから、このまま姿を消されては困る。
「どういうことなんですか? ヴォーゲンさん、教えてください。刻まれし者の帯びる宿命って? それに霧を晴らすにはどうしたらいいんです? ねえ!」
 だが、ザルム王は再び浮き上がってくることはなく、そのかわりに何か石でできた箱が浅瀬に打ち上げられて、ぱちゃりと音を立てた。キリの両手にすっぽり納まるほどの大きさの箱で、蓋を開けるとガラスの小瓶が六つ並んでいる。小瓶の中には透明でさらさらした液体が揺れていた。フィーデル河の流れそのもののように。
「…これは?」
「白霧病を防ぎ、癒す霊薬だ。受け取るがいい。病に犯された人間全てを癒すには足りぬが…。死の霧を操る者は中州に巣くっている。行きたければ行くがよい」
 そして最後に、偉大な川の統治者は泡のように微かに謝意を伝えた。
「そなたの訪れに感謝しよう。姉が幸福であったということに」

 キリは、いつまでも川辺に膝をついて、叔父にあたる偉大な魚が消えた川を見つめて動けずにいた。あまりにも衝撃的な事実が、じわじわと彼の心に染みていき、見開いたままの目は川を映していたが、ここではない場所を見つめていた。彼を我に返らせたのは、背後から掛けられた声だった。
「おや。また、会いましたね」
 わざとらしいまでに何気なさを装った口振り。あわてて振り返ると、それは昨夜の男だった。確か、名前はシグルと言ったはず。穏やかな表情で、十歩ほど離れたところから彼を眺めている。
 キリが黙っていると、シグルはゆっくりと近づいてきて、杖にもたれるようにして彼の顔をのぞき込んだ。
「その様子だと、あなた何も分かっていないようですね。今あなたと話していたのがどれほど偉い御方なのか。それに、"刻まれし者"の定めについても」
「ヴォーゲンさんのことですか? あの人は、ボクのお母さんの弟なんです」
 せっかくもったいつけたと言うのに、キリがあまりにあっけらかんとして答えるものだから、今度はシグルが驚く番だった。
「…ご親戚ですか」
「でも、"刻まれし者"というのは何なんですか? ヴォーゲンさんもその言葉を言っていました。教えてください! 知っているんでしょう?」
 もちろんシグルは知っていた。この世界の住人の中でも知るものは少ない秘密を。
 かつて、天にあって地上を照らしていた22の光の使徒。彼らが"闇の鎖"によって微塵に引き裂かれたとき、その身体は粉々になって地上に降り注いだ。その欠片をその身に宿した者の身体には奇妙な形の痣や傷が浮き上がる。それが"聖痕"である。
 光の使徒の欠片は、その身を砕いた"闇の鎖"によって地上に縛られているが、"聖痕"を宿したものが死ぬと、その欠片は天に還る。全ての欠片を天に還すことが、地上の民に科せられた義務なのだ。
 そして"闇の鎖"に心を縛られ、その役目をなげだし、ただカに溺れて"聖痕"を手放そうとしない輩(彼らは殺戮者と呼ばれている)から欠片を開放することも、また科せられた使命なのである。
「…今は詳しい話は省きましよう。つまり、あなたは"刻まれし者"で、この霧を晴らすカを持っていると言うことですよ」
 この、あまりにも何もかも省いた説明に、とりあえず今は何も疑問をはさまないことにしたらしく、キリは今度はしゃっきりと立ち上がった。
「分かりました。苦しんでる皆を救う力がボクにあるなら、ボクは戦います。それに、ヴォーゲンさんから薬をもらったから、霧の中に踏み込んでも病気を防げますし」
「まあまあ、落ち着きなさい」
 シグルは、すぐにでも飛び出して行ってしまいそうなキリを押し止めた。
「もう一人、味方がいますから」
 それが誰なのかは、キリにもすぐに見当がついた。

 

◇白濁の時◇

「リューネ! リューネェー!!」
 人気のない村に、呼び声が響いていた。この村に不釣合いに力強い声は、ただいたずらに朽ちかけた家々の壁に反響するばかりでむなしい。
 間を置かずに地を揺らすどっどっという轟きが近づいてきて、キリとシグルをめがけて突進してきた竜が目の前で急停止した。
「良かった、探してたんですよ、ジェノさん」
 言いかけた言葉をキリがあわてて飲み込むくらい、鞍上のジェノは慌てふためいていた。
「キリ! リューネ見なかったか? 昨日一緒にいた女の子だよ! いなくむったんだ。それもただいなくなったんじゃない! 子どもが見たらしいんだ、彼女が妖しげな白い霧に飲まれて消えたところを!」
 鞍の上から転げ落ちんばかりに身を乗り出し、必死に問うのだ。
 キリはシグルに物問いたげに目を向け、シグルは首を傾げた。
「ジェノさん、ボク達の話を聞いてください」
 ジェノは焦っているのを隠そうともせず、尖った犬歯をぎりっと音がするほど噛みしめたが、走り出したい気持ちをかろうじて抑えた。
「その人はその…きっとこの霧と、白霧病をばらまいている奴にさらわれたんじゃないかと…」
 あとの説明はシグルが引き継ぐ。
「つまり、この霧によって白霧病を振りまいている殺戮者が、フィーデル河の中州にいるということです。晴れることのない霧、霧を吐いて死ぬ病、そしてあなたの大事な彼女を飲み込んだ妖しげな霧。全ては霧という符号を通じて一本に繋がる。舞台裏から死を振りまく、殺戮者のもとヘ」
 シグルの言葉は、ジェノの目をいっそう険しくさせた。
「殺戮者?」
「知らなかったんですか?」
「ああ」
「やれやれ、また脱明しなくてはいけませんかね」
 "刻まれし者"と"殺戮者"の戦いの宿命について。キリにした説明だってまったく大雑把だったと言うのに、シグルは心底面倒臭そうに肩をすくめた。だがジェノの答えはシグルの心配を否定した。
「この霧や、病気の元凶が殺戮者だったのか。なら、リューネもそいつにさらわれたか…少なくとも、その殺戮者が何か知っている可能性はあるな。理由は分からないけど…」
 ジェノは握った拳をその額に押しつけて考え込んだ。ちょうど、奇妙な形の痣、"フルキフェルの聖痕"がある場所を。
「ボク達は、今すぐにでもその殺戮者を倒しに行きます」
 そして、キリがきっぱりと言い切ると顔を上げ、ゆっくり頷いた。
「俺も行く。たぶん、リューネはそこにいる。そんな気がするんだ」

 キリが村近くの船着き場まで走り、河を行き来する連絡船のうち一番小さなものを借りてきた。本来なら仕事で忙しいはずのその小船も、死の霧に包まれて村が生気を失ったこの状況では、暇を持て余し手入れもあまりされていなかった。
 幼竜とはいえ大きな身体のゲルネが乗り込むと船は揺れたが、どうせ長い航海ではない。中州にたどり着くまで保てばいいのだ。
 ジェノとキリが一本ずつ竿をとり、カ一杯漕いで行く。フィーデル河に浮かんだ船を濃く悪意に満ちた霧がすっかり覆っていた。どちらに目をやっても、白だけが視界を塗りつぶす。ともすれば、どちらが前か後ろか上か下かの感覚さえ失いそうだ。
 だが悪意の源は確実に近づいている。三人は肌でそれを感じた。特にジェノは気持ちの昂ぶりを抑えきれず、時折漕ぐ手を止めては「リューネ!」と呼びかける。その声も今はどこにも届かず、白にむなしく吸い込まれて行くばかりだが。
 とてつもなく長いこと船を漕いでいたような気がしたが、実際に漕ぎ出してから、船底が中州の砂地を擦るまで、半刻とかからなかった。ジェノが騎竜の手網を引いて飛び降り、キリ、シグルが続く。砂と細かな砂利を踏みつけて、ざくざくと進む三人と一頭の足音以外、物音一つ聞こえはしない。まるで悪夢の中みたいだ。キリが心中でつぶやいた。
 その途端、何か砂利とは違うものを踏んだ。何か柔らかいものを。キリがびっくりして霧を見通そうと目を凝らすと、それは、
「ひどい」
 かつて人だったもの。
 躍動していた四肢、光を映していた目、今は失われた命を宿していた身体…。よく見ればそんなものが、今通り過ぎてきたところにもこれから向かう先にも、ごろごろ畑の芋のように無造作に転がっているではないか。
 それに気づいたのはキリだけではなかった。ジェノがひらりとゲルネにまたがったかと思うと鞍にさげていた巨大な槍を手に取り、ドッドッと足音を響かせて走り出す。
「待って、ジェノさん」
 キリもあわてて追いかけた。後ろからついてきているはずのシグルが、同じように追いかけてきてくれることを願いながら。
 だがその心配は無用だった。走り出したジェノはすぐに止まったから。中州はそんなに広くはなく、そしてその支配者は彼らを焦らす気はなかったのだ。
「来たか。"刻まれし者"どもよ」
 言葉が終わらぬうちに、周囲の霧が渦巻きながら一点に集束を始めた。ジェノとキリの眼前、もしジェノがその手に構えた長い槍を伸ばしたら届くか届かないか、そんな距離に。
 霧は集まるそばから端正な姿の若者を形作っていく。気品と知性とを兼ね備えた顔立ちだが、彼の瞳は、それをのぞき込んだ者の背筋を凍らせずにはおれないほど冷ややかだった。
 ちょうど、彼を構成している死の霧がそうであるように。
「ようやく時が満ちた…。忌まわしき呪いにより霧と化したこの身体、癒すにはあまたの生命と、貴様らの持つ聖痕が必要だ」
 そして彼の声。それは、一切の熱を持たないにも関わらず、押さえ切れない歓喜に、愚かにも踏み込んできた獲物達ヘの侮蔑に、満ちていた。
「遠き祖のなした罪を贖うがいい、河の民の血を引く者よ。あの娘も、そうしたのだからな。ふふ、そうだ。あの娘も"刻まれし者"を呼び寄せる良い餌となった」
 霧の若者は、キリに、背後に、そして最後にジェノにその冷たい目を向けた。唇に冷笑をたたえて。そして、カーテンが開くように霧が動いて、若者の背後にあるものの姿をさらす。そこには、
「リューネ…」
 ジェノが喉の奥でうなるのを、キリは聞いた。その手に、槍の柄を握り潰さんばかりのカがこもるのを、そして竜までが低く唸り声をあげるのを、感じた。
 少女は、自身の波打つ長い髪の上にカなく横たわり、ぴくりとも動かない。その目は閉じられたままで、顔は蒼白だった。
「…ああ、そうさ。来てやったよ」
 ジェノの言葉は始めくぐもって低かった。だが、それは大地震の前の地鳴りとよく似ていた。
「でも! それはおまえに食われてやるためじゃない、決して。おまえを倒し…リューネを助けるためだ!」
「はっ」
 殺戮者は唇を歪めて一笑に付した。そしてジェノには興味を失ったようにその後ろをすかし見た。
「ようやく来たな、貴様の聖痕を捧げに」
「あの時と同じようにいくとは限りませんがね」
 シグルはただ肩をすくめただけだったが、若者は喉を震わせて低い笑い声を響かせた。笑う若者の魂はまさに一片の熱も光も持たない冷たい闇。ジェノの憤りは風を焦がす熟であり、キリの死と病を厭う想いは夜を照らす光であり、シグルはニ人の若い炎にくべられる薪なのだ。
 ひとしきり笑い、それにも飽きたか、殺戮者は言った。
「さあ、おしゃべりは終わりだ。貴様らの魂は我が霧の中で永久の眠りにつき、輪廻の苦しみは終わるのだ。集え…闇よ、死を呼ぶ霧よ! 今宵の宴、存分に楽しむがいい!」

 

◇殺戮の宴◇

 破壊は速やか訪れた。
 見えないカの奔流が三人を翻弄した。嵐が炎が切り裂く冷気や刺す闇や、さまざまなものが流れ渦巻きぶつかりあって爆発した。抗うことはできない。彼らは薙ぎ倒された。
 ∵大破壊∵。かつて天空にあった使徒のカは、その欠片である聖痕に宿っている。その聖痕のカが解放されたのだ。使徒エフェクトスのカは、空間に破壊の嵐を呼び寄せる。
 更に、神のカ−奇跡−が行使されると、その輝きによって見えざる鎖が照らされる。光と闇が、人の魂を我が陣営に近づけようと密やかに伸ばしていた鎖が。
 ジェノにもキリにもシグルにも、細い鎖が幾重にも巻き付いているのだった。あるものは朝露をきらめかせる蜘蛛の糸のように美しい光をたたえ、あるものは塗りつぶしたようにまがまがしく闇色の、細い幻のような鎖だ。
 だが、鎖の束縛のカは容赦がない。きりきりと彼らの魂を締めつけるのだ。
 ∵大破壊∵のもたらしたエネルギーの嵐に倒され、そして鎖の束縛に締めつけられる三人を、殺戮者ダルセフォンは可笑しそうに見下ろした。
 彼もかつては、ニ種類の鎖が引き合うカに魂を締めつけられていた。だが彼は弱く−決して彼自身は認めないだろうが−闇が囁く誘惑に負け、魂を闇の鎖に預けたのだ。
 闇は囁く。カを手に入れよ、そしてそれをただ自らのためだけに用いよ。それが人の道に背くことであろうと、いくつの命が理不尽に奪われようと、かまう必要などない。自分と他者との間にある葛藤に、悩み苦しむ必要などないのだと。
 だかその囁きに一度でも耳を傾けた者がどうなるか。
 キリは立ち上がった。腰に下げていた水晶の剣を抜き放つ。念じると、風がその刃にまとわりついた。キリは自分でもどうしてだか分からないが、風を操るカを持っていた。風をまとって威カを増した剣を、まっすぐに、闇の囁きに耳を傾けてしまった者に向ける。
 シグルも立ち上がった。彼はかつてよりも強くなっていたので。殺戮者が目論んだ通りに再び倒されてやるわけにはいかない。杖に寄りかかり、呪文を唱える。彼の武器は言葉。言葉は世界の全ての事象を表わすものであり、事象の本質なのだ。そのカを真に引き出せるものは少ないが、絶大な威カを持つ。
 そして、ジュノは、いつまでも倒れているわけにはいかないのだ。ゲルネの背から吹き飛ばされはしなかったものの、鱗が吹き飛び傷ついた竜の背にがっくりと伏している。その上半身をゆっくり起こしたとき、彼の金色の目は瞳孔が縦に割れ、もとから大きかった犬歯は今やはっきりと牙と化していた。ジェノはウルフェンの一族、地方によって狼男や獣人などとも呼ばれる一族の出自。意志のカや感情の昂ぶりによって半獣半人に変化し、恐るべきカを振るう。
「倒されるのは、おまえのほうだ!」
 ゲルネが頭を低くして突進し、その背でジェノも身体を低くし槍を繰り出す。確かに貫いた。だが、手応えはやけにうつろだ。
「我が身体は霧と化したのだ。霧にそのような武器が効くものか」
 確かに、殺戮者の胸のあたり、槍が貫いたはずの場所に、人間らしい、いや生物らしい傷はない。ただ白い靄が渦巻き、そこだけ若者の姿が乱れている。まったく効かないというわけではなさそうだが、ジェノはぎりっと歯噛みした。
 ダルセフォンは薄笑いを浮かべたまま、自身である冷たい霧を目の前の戦士達に絡みつかせた。霧は幾千もの細かな刃と化し、戦士達を切り裂こうとする。ジェノとキリは、あるいはかわし、あるいは潜り抜けて、一撃を与えようと果敢に挑んだ。形を持たぬ霧はニ人を翻弄する。剃刀よりも鋭い無数の刃が自在に形を変え迫るのだ。
 キリの風をまとう水晶剣、シグルが紡ぐ《幻撃》は殺戮者の霧の身体をも、易々と切り裂く。だが、霧の刃もまた、キリとジェノを切り裂く。
 致命的な一撃を防ぐために、致命的な一撃を与えるために、天空の使徒のカである奇跡が幾度も振るわれた。そのたびに奇跡の輝きが見えざる鎖を照らし出し、闇からの束縛が三人の魂を痛めつける。
 戦いは続いていくにつれ、壮絶さを増していった。それは地上の民同士の争いと言うより、神話や伝説に語られるそれに近いかも知れない。使徒アダマスの無敵の盾が死をもたらす使徒グラディウスの指を払い、無邪気なる使徒アングルスの光が使徒アクシスの奇跡の魔術を打ち消す。
 神の奇跡を駆使した戦いは、だが、徐々に形勢を明らかにしていった。三人の"刻まれし者"達が波状に繰り出す攻撃は、ダルセフォンの姿をわずかずつ混沌の霧に還していく。もちろん彼らとて無傷ではない。キリは霧の刃に裂かれた傷から幾筋も流血し、額も腕も真赤に染まっているというのに、顔色ばかりは失血のために青ざめている。薄茶色の前髪を張り付かせた顔、それこそジェノがかつて肩を並べたキリそのもの。
 ジェノはキリほど傷を受けてはいなかったが焦っていた。いくら貫いても、彼の槍はまるで雲でも突いているかのように軽い手応えしか残さない。倒せるのか? 誰かが犠牲になる前に。
 殺戮者の目はもはや正気を手放しかけている。彼は焦燥で、もどかしさで、こんなはずではないという想いで、冷たい身体を焦がしていたのだから。なぜだ、なぜ充分に年経てカを蓄えた我がこのような者どもに押されている?
 彼は運命を憎んだ。いつでも理不尽な扱いを受けていた。水界を統べるザルム族の王子として生まれながら、不当に故郷を逐われ、父である王に呪いを掛けられた。「闇に落ちし愚か者よ、汝はもはや河に住むことも地上を歩くことも許されぬ」
 理不尽ではないか。彼はただ、王たるに相応しいカを得たいと願っただけだ。
 全てが憎い。ザルムも、人間も、"刻まれし者"も。河も、大地も、それら全てを宿す世界そのものも。
「ふはははは、愚か者どもめ! 我を、我をただ消し去れると思うな! 一人でも良い、我が地獄蕗の道連れにしてやろう!」
 殺戮者から冷ややかさは仮面のように剥がれ落ち、彼は狂った目で哄笑を上げた。傷口から恐ろしい勢いで白煙を上げながら。彼には冷笑よりも哄笑が、冷静さよりも狂気が相応しかった。それが、闇に飲まれた者の成れの果て。
 ダルセフォンが残された奇跡のカを振るう。神の剣、無敵の戦士、使徒アルドールの絶対なる破壊の剣をただ一撃、地上に呼び寄せる。その切っ先が指すのは、ジェノ。
 憎き一族の、河の乙女に慕われるもの。
 長い長い一瞬、ジェノは自分を指す切っ先を真正面から見つめた。それの威カは知っている。硬い鋼の鎧も、頼もしい相棒の生命カも、使徒の剣に対する盾とはならない。唯一対抗できる使徒アダマスの盾は、もうしばらく呼び寄せることはできないだろう。
 静かに、彼は死を覚悟した。不思議なことに、穏やかな気持ちで。守れなかった娘のことだけが、心にチクリと痛んだけれど。
 使徒の剣が、振り下ろされる。目は瞑らずにいた。「ジェノさん!」キリの悲鳴。おいおい、当の本人よりうろたえてどうする?
 だが、覚悟していたものは何も訪れなかった。断末魔は、予想外の所から響いた。
 うぅあああぁぉぉぉぉぉうぅぅ…!
 突風がカ任せに大地を凪ざ払う音に似た、声。ジェノが目を向けたときには、殺戮者ダルセフォンを貫いた使徒の剣は消え失せ、彼はその傷口から恐ろしい勢いで吹き上げる霧に飲まれていた。訳が分からないジェノはキリを見る。キリも、きょとんとした青い目で見返すばかり。
 シグルは黙っていた。彼は自分の…いや、世界中の事象の名付け手である使徒ファンタズマの奇跡∵真名∵を振るったが、それを誇る気はなかった。表舞台にはけして立たないのが、シグルのシグルたる所以だったから。

 

◇光射す場所◇

 足の形を成していた霧がもとの姿に戻ってしまうと、若者はたまらずどうと倒れ伏した。彼は再び、笑っていた。自分を、そしてここにいない誰かを嘲って、笑い続けていた。
「我を、倒したところで…。霧は晴れよう。だがな、王女も失われる! もはや、あの娘はザルムでもなければ人間でもない! 存在を繋ぎ止める絆が得られなければ、消え失せるのだ。我が霧とともにな! ざまを見ろ、呪わしきザルムの王め! 最愛の娘を失って嘆くがいい!」
 彼は霧となって消え失せるまでの残り少ない間、嘲笑をやめなかった。ジェノは呆然と笑い続ける殺戮者を見下ろした。顔色が見る見る青ざめてゆく。
 嘲笑のあとを引ぎずりながら、ダルセフォンは消えた。
 残されたのは、きらきらと光の粒をこぼしながら宙に浮いた十の聖痕。殺戮者が、その身に余る数を収集し宿していたものだ。闇の鎖と、闇に落ちた魂によって地上に縛られていた星の欠片は、今こそ解放されて天に還るのである。
 聖痕は輝きを増しながら、ゆっくりと高度を上げていき、見上げるほどの高さまで昇ると一瞬止まり、そして一気に加速して飛び去った。まるで、鳥籠から解き放たれた鳥みたいだとキリは思った。なんて嬉しそうに飛んで行くんだろう。
 聖痕が飛び去るのを見送った彼らは皆例外なく心が軽くなったのを感じた。それは、魂に絡みついていた見えざる闇の鎖が、解放された聖痕の光を受けて音もなく粉々に砕け散ったから。
 そして。
 霧が晴れる。いつのまにかこんなにも暗くなっていたことに、霧が晴れ、遮られていた陽光が差し込んで初めて気がついた。光はまばゆくまっすぐな線となって霧を裂き、薄暗がりに慣れた目を撃ち、線は太くなり地面に日溜まりをつくる。
 光が蘇っていく輝かしいはずの光景。だが、それはジェノの目にはまったく入っていなかった。彼は青ざめたまま、ゲルネの背から滑り落ちた。脇目も振らず、横たえられた少女のもとヘ。
 若者は少女の傍らに膝をついた。のぞき込むまでもなく、彼女の顔に生気は乏しい。
「リューネ…」
 搾り出した声は彼女の耳に届いたのか、リューネはゆっくりと目を開けた。まぶしそうに目を細め、のぞき込んでいるジェノを見上げる。たちまち、その湖のように青い瞳が悲しみにゆらぐ。目を開けたことにほっとしたジェノも、その表情が何を示すのかを悟って唇を噛んだ。
「本当に、消えるのか…あいつが言ったように? 嘘だろ。やめてくれ。俺、今朝、おまえの姿がなかったとき…」
 若者は言葉に詰まった。だがもし、ただ照れくさいというだけの理由で、この気持ちを伝えられなかったら笑うに笑えない。どんなに凶悪な敵と戦うときよりも勇気を奮い起こし、彼は言葉を続けた。
「おまえの姿が見えないってだけで、あわてた。焦った。ただいないだけで、だぞ! 消えたらどうなるんだよ! 俺に、何かできることはないのか!? おまえが俺を助けてくれたように、俺は、おまえを、助けたい…」
 ジェノは真摯に彼女の目をのぞき込んだ。答えが欲しいとき、彼がいつもそうしてきたように。リューネは全ての想いを込めて見返した。だが…
「分からない…分からない! どうしたらいい? どうしたら"絆"を作れるんだ、教えてくれ、リューネ!」
本当に大事なことは、声に出さなければ伝わらない。そんなことを、ジェノは今更ながら苦々しく噛みしめた。確かにリューネは今まで一度だってその声を聞かせてくれたことはない。そして、ジェノはそれを不便には思っていたけれど…それと同時に甘えていた。
 彼女が本当に伝えたいと思っていたことから目を背け、そして自分の心からすら目を逸らしていた。そのつけが、今まわってきたのだ。ジェノの心の中にあり、目を逸らしていた言葉。
 彼女を守りたい。
「クソ、もっとちゃんと…ていたら」
 俯いたままのジェノの煩に、冷たいものが優しく触れた。はっと顔を上げると、それはリューネの手だった。白く、細く、少し子どもじみた手。手を差し伸べて、彼女は小さく微笑んでいた。元気づけるように、勇気づけるように。そして感謝の気持ちを込めて。
 ジェノはその手にすがりつく。消え行くひとを引を留めるようにではなく、溺れる者が助けの手にすがるような勢いで。だが、それまで少女に触れることを恐れていたジェノが、今はしっかりと両手で、細い手を握りしめる。そうだ、この握った手を離さない。これが"絆"になればいい。
 しかし、願いはむなしく…
 段々に勢カを強めていく陽光が、ついに死の霧を最後の一片まで吹き払う。まぶしい光が少女の上にも降り注いだ。その光に少女の身体が透け、その下の地面が見えることにジェノは戦慄し、いっそう握った手にカを込めた。
「リューネ」
 そんな短い音節を言い終わる時間すら与えられなかった。まるで氷か何かのように、光を浴びてリューネは泡になった。容赦なく中州の砂利は泡を吸い込んだ。
 両手はからになった。頭の中も。
 ジェノはのろのろと両手を見下ろした。とても信じられない光景は、それで終わりではなかった! 奇跡は聖痕にのみ宿るのではない。
 時間の流れも、ごく希に水の流れのように逆流するのかも知れない。その奇跡はまさにそんな姿をしていたのだから。泡になって消えた少女は、地面から湧きあがるように再び現れた。
 ニ人とも、とっさに何が起きたのか理解できずにいた。だがリューネのほうがいち早く全てを理解した。消失は生まれ変わるための通るベき過程だった。彼女の運命は、意志や…愛のカで曲げられた。
 そう、愛のカで。
 彼女は微笑んだ。それは、虫食いだらけの太陽よりも輝いている。
「愛して、います」
 大事なことは、言葉でしか伝わらないと、噛み締めたばかりだというのに。ジェノは、リューネの細い身体を優しくカ強く抱きしめた。黙ったままで。

 キリは、リューネが無事にジェノの胸に抱かれるのを見届けて、ニ人の邪魔をしないように静かに立ち去った。
 小船のところまで戻ると、シグルが待っていた。ニ人は言葉を交わさずに漕ぎ出した。
 霧が晴れ、本当に久しぶりの青空がフィーデル河に映る。水界の奥にも、この朗報はすぐに伝わるだろう。ヴォーゲンさんもきっと喜ぶはず。キリは川面に目を落として、考え続けた。
 遠目に見た、あのリューネの笑顔は、あまりにも母のそれに似ていてキリは一瞬どきっとした。ヴォーゲンや殺戮者の言っていたことを考えあわせると、彼女は母の姪ということになるのだから、それも当然なのかも知れないが。
「すごいよな〜」
 キリは屈託なく笑い、大きな声で言ってみる。本当にすごい。たった数時間の間に彼の人生観すら変えてしまいそうなほど、いろいろなことが起こり、さまざまなことを知った。
 そして霧は晴れ、死の病は去り、母に似た面影の少女は幸せになった。
 そっと同乗者のほうをうかがうと、シグルはキリの大声にも無反応な様に見えた。
「シグルさん、これからどうするんですか?」
「私は、村に戻りますよ」
 シグルはやれやれと、疲れた声で答えた。
「それから?」
「いろいろとね。それよりあなたは?」
 キリは少し考えてから答えた。明るい声で。
「船を船着き場のおじさんに返したら、後は分かりませんね。ここには母の遺言で来ただけだし、もう帰る家もないからどこかに旅にでも出ようかな。どこか、良いところ知りませんか?」
 キリ・エリットはその言葉通り、船着き場のところでシグルと別れ、運行を再開した川船に乗って、どことも知れず旅立って行った。
 河はいつまでも、縁深き少年を見送るように歌い続けた。

 シグルもその後、リンド村に長くとどまることなく去って行った。
 村を去る前に、シグルは単身再び中州を訪れた。ごろごろと転がっていた命なきもの達は、村人の手によって手厚く埋葬されていた。決戦の場所も、何事もなかったかのような平凡な中州の一画になっている。何者にも遮られない西日があたりを明るく照らしていた。フィーデル河は陽気に流れ、川底の砂利を転がして歌ったり、波を立てて緋色の陽光をきらめかせたりしている。相変わらず止まない風も心なしか温んでいた。
 シグルはゆっくりと歩を進め、殺戮者が倒れた場所に立った。
「おや」
 きらり。何かが鋭く反射させた光が彼の目に飛び込んできて、シグルは目をかばって杖を持たないほうの手を上げた。
 光源は砂利の中に半ば埋もれていた。鋭く光るはずだ。拾い上げ、シグルは皮肉に口元を歪めた。親指の爪ほどの大きさの清らかな光を放つエメラルド。その正体がなんなのかシグルは知っていた。
 スマラクト。ザルム族が人間の姿に変身することを可能にする魔法の石。
「確かに、もう彼らには必要のないものですね」
 しかし、シグルにも必要のないものだ。どうしたものか、考えるまでもない。彼はゆっくり、川縁に歩み寄った。

 シグルが去った後、リンド村には村を救った英雄の物語だけが残った。竜に乗った若き英雄と風を操る魔法剣士が活躍し、死の病を蔓延させた悪者を倒してさらわれた少女を救う物語が。
 その物語は、快方に向かいだした患者達をを治療し続けた女医のティナが広めたものだという。