雨降り、まちかど、スキャンダル
その話を最初に仕入れてきたのは、みいあだった。珍しいことじゃない。なにせみいあは高校の一年生にまぎれて学校に通っている。16歳の女の子というのは三度の飯より噂話が好きだということに相場が決まっている。
「じゃーん、これ本物だよ!」
1時間目が終わった最初の休み時間、先生が教室から消えるのも待ちきれずに、クラスメイトの杏子がガバッと立ち上がった。多分、授業中は必死に頭が揺れないように耐えて、半死人同然だったというのに…。なぜ『多分』としかいえないのかはさておき。
「心霊写真!」
「えー」
「ただの現像ミスとかじゃないの」
「今時、アナログ写真ってどうなの」
口々に適当なケチをつけながらも、杏子とある程度仲良しな女の子たちがチラホラその机の周りに集まる。
その中には、好奇心旺盛新聞部のルーキー・ユキとヨウコ、そしてもちろん二人に引っ張られるようにしてみいあも混じっていた。
「バカだな、幽霊はデジカメには写らないんだよ。常識じゃん」
「どこの常識〜?」
「ありえな〜い」
「心霊写メとかヤバくな〜い」
それでも、その場にいた5人ほどは杏子が取り出したシステム手帳のクリアケースに身を乗り出して見入った。考え込むような沈黙、約5秒。
「まじー」
「キモーイ!」その声はかなり大きく、教室中が一瞬静まり返った。また、すぐにガヤガヤ始まったけれど。
みいあは(猫だけあって)好奇心の強さは実はユキ・ヨウコと大して変わらない。でも、がっついて飛びつくのはクールじゃないから、興味なさげなフリをして横目でチラ見した。
それはどこかの交差点の写真だった。多分、住宅街の真ん中の交差点。時間帯は夕方でも黄昏でも明け方でもない、紛れも無い夜で、雨が降っているらしくフラッシュに反射した雫が画像全体に淡く霜を降っている。被写体は、長い車体の長距離トラック。かなりのスピードで疾走中のところを撮影したのだろう、輪郭がブレている。その運転席のすぐ横、真下に、トラックの大きさから比べると、玩具みたいに小さく弱々しい何かが一緒に写りこんでいた。なんだろう、これは?そう考える間が、沈黙の5秒を作ったものらしい。
「自転車…」
「そう!」
杏子は我が意を得たりとばかり、得意げに指差して説明を始めた。それは誰もこいでいない自転車だった。
「これ、弟が撮ってきたんだけどね、このときトラックは60キロくらいで走ってたんだって。しかも、これよ〜く見て。自転車自体はさ、20インチくらいの子供用なの。でも、運転席の真横にいるでしょ」
「浮いてる〜!」
「キャー!」
誰かがわざとらしい悲鳴をあげた。
「で、さらにさらに、後ろのタイヤ、見て」
「壊れてるじゃん」
「そうなの!ここの交差点、うちの近くなんだけど、一年くらい前に小学生がトラックに跳ねられたんだって。しばらくお花置いてあったし。それからちょくちょく出るって噂で…」
「異議あり!」
突然ユキがびしっと杏子の鼻先に人差し指を突きつけた。
「この自転車、心霊写真にしちゃ鮮明すぎるわ。合成でしょ。プロを舐めないで〜」
「けど、でも、私も弟に言ったけど、ホラ…」
杏子はユキをまっすぐ見て、ユキの人差し指を掴まえて、写真の、ある一点に当てた。
濡れそばった地面が、カメラのフラッシュを跳ね返して光っているところ。確かに、件の子供用自転車と思しき影が、水鏡にぼんやり映っている。顔を近づけて、よくよく凝視すればするほど、信憑性のありそうな位置にある影。
「バッカじゃないの」
誰もが黙ったところで、みいあがぶっきらぼうに言い捨てた。
「ゆーれーなんてこの世にいるわけ無いじゃない。人間は死んだら消えるのよ。べーつーにー、杏子が嘘ついてるんじゃなくても、見間違いとか勘違いとかじゃないの。蜃気楼とか」
「ん〜〜」
すると、いつもなんだかんだと二人がかりでみいあを言葉の袋叩きにするユキとヨウコが、なにやら思索ありげに顔を見合わせた。
「今日のところは、みいあに一理あるんじゃない」
「みいあにしては珍しく、まともなコト言うじゃない」
「だよね、いっつもは」
「まともじゃない」
「ガー!そこうるさい!」
「ほらそういうところ」
「まともじゃないっていうより、人間じゃない」
ヨウコはケラケラ笑い、ユキは肩をすくめて息をつく。すっかり話がそれた杏子は、不満げに下唇を噛んだ。その肩をポンと叩くユキ。
「分かったよ〜、プロが真相を解明するから、がっかりしないでよ、キョウコちゃん」
「そう、新聞部の威信にかけて、このみいあが身体を張って突撃取材してくるからさ」
「あたしは新聞部じゃないわー!!」
みいあは憤然と机をグーで叩いた。…他人の机を。
○●○●○
「はいはーい、全員集合」
営業時間外とはいえ、ズカズカ男風呂の脱衣場に入ってきたみいあを、ひょろんとした青年がびっくり眼で出迎えた。デッキブラシを片手に、凍りついたように動きを止めて。
「三宅さん、ここは一応男子浴室なんですけど」
「誰も入ってないのに、問題あるの?あるなら言ってみなさいよ〜赤坂〜」
「僕が言っているのは三宅さんのデリカシーの問題で…」
「なによー、私にデリカシーがないとでも言いたいの?!」
「フ.分かっておるではないか」
いらない一言によってみいあに襟首をつかまれ絡まれる銭湯従業員の赤坂。それを加勢しようというのか、脱衣所の床に積み上げた籠の中に、ポツンと放り込まれている黄色い物体が口を開いた。よっこらしょと自分の背丈ぐらいの高さの籠のふちを乗り越え、井草の敷物の上に降り立つ。
「毛玉をゲーっと吐き出すばかりのネコ風情が、我輩直属の清掃員を折檻するなど、100年早いわ。分かったらとっととこの男の城から出てゆくが良い!」
朗々と啖呵を切った黄色いアヒルの上に、影が落ちた。
「いっつも女湯に浮かんどるお前が言うな」
「うわー何をするー」
とりあえずアヒルは表の青いポリバケツに放り込んでしっかり蓋をし、静かになったところで、みいあはふと気付いた。全く「全員集合」にはほど遠いことに。
「どうしてあんたとアヒルしかいないのよ」
「しょうがないでしょう。みんな仕事をしているんだし」
赤坂はデッキブラシを何気なくアピールしながら答えた。
「煙の爺さんは?」
「裏でボイラーの調子を診てますけど。ねお君も一緒に」
「そういえばそんなのもいたわね。いないよかマシね…」
みいあはマッサージ椅子に身体を投げ出した。「ちょっと待つか〜」
ガラガラガラ。
「うお、こんなところでそんな格好で寝るな!」
うっかり居眠りをしてしまったらしい。万雷のような怒声で目を覚ます。眠い、開かない瞼をこすりつつ、声の主を見上げた。
「おはよう、おっさん」
「もう夕方だ」
ぼやける視界に飛び込んできたのは、洗面器を左腕にぶる下げ、頭にタオルを巻いた職人風の男。年齢は40くらいだが、中年と一括りにするにはもったいない気もする。そんな活気みなぎるオヤジだ。みいあは飛び起きた。
「そーよ!大塚さんなら適任じゃな〜い」
「いや、だからな。お前、せめて制服姿で男湯で寝るのはよせ。一般客が入れないだろう」
「あー、よく寝た!これくらい寝れば今夜は徹夜でも平気ね〜!」
人の話なんかまったく聞いていないみいあだった。しょうがない。ネコで、且つ女子高生なのだから。自分勝手の粋を集めたようなものだ。
○●○●○
『料理やろくろく』は、家族連れをターゲットにした店ではないけれど、たとえ酒を飲めないお年頃の格好で入っても、美味しい料理が迎えてくれるから問題ない。店主が事情を知っているから、「生魚山盛りで」だとか「火薬ご飯」だとかの注文にも対応してくれるし、なんと奥には個室まである。
「やっぱり、ここを本拠地にすべきよね〜」
新鮮な生いわしを頭からかじって、ご満悦のみいあはしみじみ言ったが、
「お断りよ」
若女将の結花は空いたお皿を片付けながらピシャリと切り捨てた。
「売上が落ちたって、誰も補償してくれないんだから。こんな、口の周りに鮮血滴らせてる女の子なんていたら、普通のお客さんが入ってきにくいでしょ」
「なによ、みいあちゃんのかわいさで売上倍増に決まってるじゃない」
結花は何も答えずに5重に重ねた皿を持って厨房に引っ込んだ。その口元にチラリと失笑が浮かんだことに、幸いにもみいあは気付かなかった。六道結花は、今日は涼しげな淡い若草色の和装に身を包み、日本髪に薄化粧の楚々とした美人だ。年齢は確か…20代半ばだったが、年のわりには落ちついた雰囲気をかもし出しているのは、恐らく商売柄なのだろう。実際、お店が休みの日には、ローライズ気味のジーンズにノースリーブシャツという普段からは想像もつかない活動的な格好で、中目黒あたりに出かけている姿が目撃されている。
「悪いな、結花ちゃん。忙しい最中に」
「あら、悪いなんて。いつでも大歓迎ですよ」
「大塚のおっさんは、ね」
大塚が酒を飲む手を止めて声をかけると、結花はみいあに対応する時より1オクターブ高い声で答えた。みいあはにやりと笑って上唇についたいわしの血をペロリと舐める。
そこへ、相次いでもう二人やってきた。親子のようにも見える二人連れ。一方は40絡みの大男で、もう一方は中学生くらいの少年だ。親子のように見えるのは年恰好だけで、風貌はまるで違うけれど。
「いやいや、珍しい顔がいるもんだ」
ビーズの暖簾の下がった低い鴨居を身をかがめて潜りながら、大男が笑った。個室に入ってきてみれば、大柄どころではない。がっしりとした肩はばなんかは、普通の中肉中背の大人二人分ほどもある。
一緒にやってきた少年はするすると大男の脇をすりぬけて、ちょこんと大塚の隣に座った。
「ねお君は、何か特別料理がいるんだっけ?」
「すいかー」
「はいはい」
「ビール」
「はいはい。ピッチャーでね」
新たに加わった面々がそれぞれ席につき、落ち着いたところを見計らって、みいあは経ちア上がった。
「さあ、作戦会議するわよ。幽霊退治の」
手短に学校で仕入れた話を聞かせる。
「柏っていったら川向こうだな。静江さんが何も言わなかったわけだ」
大男こと熊倉が、中ジョッキに見えるピッチャーを軽く振りながら相槌を打つ。
「あら、その話、私も聞いたことがあるわ。本当に『出る』心霊スポットだってわりと評判よ。実際に見たって人も結構いるみたい。お客さんの中にもいたわね」
いつのまにか結花も話しに加わっていた。
「なーんだ、あんたも知ってたんなら、早く言えばいいじゃない」
「あのね、学生さんには分からないと思いますけどね、飲み屋の会話は99.98%が眉唾なのよ。それにいちいち反応していたら、生活できなくなっちゃう」
「ま、その辺は学校も変わりないとして。今回はかなりキワモノだわね〜。なにしろ」
みいあがそこで一旦言葉を切り、結花のほうを横目で伺った。結花も、みいあが同じ情報をもっているのか探るようにしばし黙り。やがて、二人の声が図ったようにそろった。
「トラックが信号無視すると、100%、出るらしいよ」
みんなの視線が、熊倉に集まった。
○●○●○
この季節にはよくあることだが、ぬるい風が吹いたかと思ったら大粒の雨が降り出した。物の30秒もしないうちに、それはバケツをひっくり返したような暴雨になる。絶え間なく降る水が、それでも容赦なく通り過ぎてゆく車のヘッドライトを受けて、カーテンのように視界を遮る。
「ぬーれーたー。イカヅチ様め、時と場所を考えろってゆーの!」
ネコなのに濡ねずみのみいあが天をにらみつけて悪態をつく。パステル調のかわいらしい仔猫がプリントされたTシャツも、薄いブルーのデニムのバミューダパンツも、ぐっしょり重たげに濡れて、彼女の肌にはりついていた。ぴったりシャッターを閉じたタバコ屋の狭い軒下では、アスファルトに激しくぶつかって跳ね返る雫を避けるのには、到底足りないので。
その軒下には、みいあより頭半分背の低いねおと、頭一つ半背の高い大塚が一緒に入って、同じように濡れていた。三人がそろって見上げる空にはもくもく渦巻く黒い雨雲、光の蛇がその雲の海を勝手気ままに泳ぎまわりながら、気持ち良さそうに歌っている。平たく言えば雷雲に稲光が走っては時折轟音と共に落雷が起きているわけだ。
「ま、これくらいの雨、沖縄じゃ日常チャメシゴトだけどな」
「東京でだってそうよ」
ねおが気楽に言いながらくるくる回転する。なんだかねおは雨に濡れてかえって元気になったようだ。不意にみいあがものすごい速さで大塚のほうを振り向いた。
「おっさん、だいじょぶ?!」
「あん?」
「おっさんが消えちゃったりしたら作戦に支障がでるんだけど」
「雨ぐらいで消えやしねえよ」
大塚は頬を歪めて苦笑いしたが、続けて、「確かに、やりにくいがな」と顎の無精ひげを引っ張った。
「止ませるか?」
みいあは勢い込んでうなずいた。
大塚はギュっと太い眉毛の間に皺を寄せる。そうすると、本当に気難しそうなオヤジだ。みいあとねおが興味津々に大塚を見上げるうち、心なしか雨音が穏やかになってゆく。みいあがチラリと振り向くと、ほんの数秒前までちょっとした滝のような勢いで地面に叩きつけていた雨が、だいぶおとなしくなっていた。雨粒が針のように細くなって、間もなく止むんじゃないかと期待させる。
しかし、突然一際耳を劈くような雷鳴と稲光が不機嫌に辺りを青白く染め上げたかと思うと、雨は再び勢いを盛り返した…いやいや、さっきより強くなったかもしれない。大塚が舌打ちした。
「イカヅチのやろーめ…」
「まーじー?」
「負けるな、おっさん!」
ねおが応援のつもりか奇妙なダンスを踊るのを視界の端っこに引っ掛けつつ、みいあは腕時計に目をやった。
「もうすぐクマオヤジ来ちゃうじゃない」
「怪我の功名だと思え、この雨ならまずは余計な目は気にせずにすむ」
大塚は気難しいというのがピッタリなしかめ面でうなり、厳しい目つきで空を見上げた。黒雲渦巻く空で勝ち誇ったように縦横無尽に泳ぎまわる稲光を睨んだ。
「仕方ないか〜、もう時間ないし」
再び腕時計を見ると、午後10時58分40秒。11時を目指してクマオヤジこと熊倉の運転する本物の長距離トラックがこのいわくつきの交差点に進入し、まんまと信号を無視するのだ。そこに現れるであろう幽霊を、待機組であるみいあたち…主に機動力のある大塚…で捕まえるという至極単純な作戦。
豪雨のお陰で人通りは全くないし、車さえほとんど通らなくなっていた。大塚の言うとおり、かえっておあつらえ向きの幽霊捕獲日よりかもしれない。少なくともそう思わないと、やりきれない。
みいあの視界の左端に、キラリとヘッドライトが目に入った。
時間通り、トラックが300メートル先の角を曲がってきたのだ。
「よぉし、時間通りね」
ニンマリほくそ笑むみいあの、瞳孔が縦長になり夜闇を見通す猫の瞳に、信じがたいものが…飛び込んできた。一瞬、見間違いだ、夢だ、悪夢だと現実逃避しかけた。どうして今まで気付かなかったのだろう?考えるまでもない、この土砂降りのカーテンのせいに間違いない。
3人が雨宿りしている軒下から、交差点を隔てて点対称となる向かい側。そこには灯りの消えた赤い看板のコンビニがある…こんな時間に閉まっているはずはないから、撤退した後、次のテナントが入る前の空き店舗なのだろう。その狭い軒下に、みいあたちと同じように半分濡れながら身を寄せ合うようにして閉じ込められている二人組がいる。用意のいいことにカッパを頭からかぶっているが、そいつらが誰なのか、目に入った瞬間わかった。
「あいつら…」
クラスメイト、ユキとヨウコだ。ショートカットで茶髪のユキはしきりに携帯をいじっている。一方のヨウコはいつもアップにしている髪をラフに解いて、水滴がついてしまった眼鏡を気にしながら、こちらはアナログカメラを濡れないように腕でかばっている。
「ん、どうしたみいあ」
大塚がみいあの厳しい視線に気付いてそちらを見た。
「んだ、知り合いか?」
「ウチの新聞部の連中なんだけど」
「まずいな」
「心配要りません、隊長!」
ねおがみいあと大塚の間に割り込む。
「イカヅチのせいで付近の精密機器はホレこのとおり機能してないです!」
その手に持っているのはストロベリーピンクの機体と金魚のストラップの携帯電話。パカッと開いて青白い光の燈るフルカラー液晶のディスプレイには何も映っていない…待ち受け画面も、時刻表示も。ただ青白い無地の画面が雷鳴に怯えるように明滅するばかりだ。なるほど、これならカメラ機能も使えまい。だからユキは必死になって携帯をいじっていたのか。だけど、
「それは誰のケータイじゃー!?」
「遊んでるな!もう来るぞ」
すばしっこいねおの手から携帯電話を取り戻そうとじゃれかかるみいあ、それを制する大塚。トラックは雨だというのにかなりのスピードで交差点に突っ込んでくる。ブレーキの気配はない。さすがの轟音とヘッドライトに、ユキとヨウコも顔をあげた。
二人の口が、そろって同じ動きをするのが、みいあの夜目の利く猫の瞳の端にうつった。
あ。みいあだ。
最大にして唯一の武器であるカメラを無力化された二人の女子高生の右側から、轟音とヘッドライトの白い光が迫る。かと思うと時速80キロは下らないスピードで走ってきたトラックが二人の目の前を通過した。その直前に見えたもの…からかうようにみいあの携帯電話を取り上げる若い男。それを取り戻そうとじゃれかかるみいあ、そんな二人を止めようとする40代と思しきオヤジ。そして、まずいところを見られた、という振り返りざまのみいあの表情。
トラックはけたたましく突風と飛沫を撒き散らして、ものの数秒も掛からず通り過ぎた。信号はりんご飴のごとく真っ赤。しかし、女子高生たちの目には入らない。
「消えた」
「でも、見間違いじゃないよね?」
二人は正面に向けた視線を微動だにさせずに、確認し合うように呟いた。釘付けの視線の先には、ついさっきまで人がいた、けれど今は空っぽの軒先。
「私たちがみいあを見間違えるわけないっしょ」
「そうだよね、そんなことしたら間違えられた人が超かわいそうだし」
「男連れ…」
「それも、ただならぬ仲!」
ユキとヨウコのテンションが徐々に上がり始めた。もはや、彼女たちの頭の中には幽霊のユの字もない。その代わりに思い描くのは派手な見出しが躍る紙面。不倫、援交、年下の彼氏との二股から泥沼の三角関係…おもしろいことになりそうだ!ぬるい雨に濡れてしぼんでいた気分がウキウキ小躍りを始める。
「でもさ」
ふと、ヨウコが冷静に眉をしかめた。
「この内容って、絶対オフィシャル版には載せられなさげ」
「そだねー、学校側がとやかく言うねー」
「どうしよ」
「そんなの、手段は一個だけじゃん!」
ユキは携帯電話を握ったまま拳を天に突き上げた。
「裏新聞部の復活よ!」
「そっかー、だよねー、やっぱソレだよね!」
「うんうん。権威に拠る言論統制に打ち勝つにはもーそれしかない!岩湖高校の伝説に残る裏新聞部の復活しか!!」
妙な盛り上がりを見せる二人の女子高生を置き去りにして。
関東東部を包む豪雨は未だ止む気配はない。
○●○●○
ぐしょ濡れでぺしゃんこになっている上に突風にあおられているというのに、全身の毛がブワリと総毛立った。続いて悪寒。風邪でもひいたかしらん、だとしたら全部イカヅチのせいだわ、銭湯に帰ったら文句といっしょに一発殴ってやらなきゃとみいあは考えた。
「でたぞー!」
耳元で馬鹿でかい、しかも声変わり前だから耳に突き刺さる甲高い叫び声が上がったので、みいあの注意はすぐに現実に戻ってきた。
「うっさいわよー」
「でかい声じゃなきゃ聞こえねーだろー」
「あたしの耳は超高性能なのよー!」
「でも頭がついていってないけどな」
みいあは言い返そうとしてぐっと言葉を飲み込んだ。ここで言い返したらどうなるか、辛うじて想像することが出来たから。相手は、みいあと同じく突風にさらされておでこ全開になっているねおで、ねおの右腕は猛スピードで疾走するトラックの荷台の淵をガッチリつかみ、左腕は白猫の首根っこをしっかり掴まえているのだ。白猫はつまりみいあの本当の姿。ねおが気まぐれにその手を放したら、小さな白猫は軽々と振り落とされて、硬く冷たいアスファルトの地面に叩きつけられるだろう。間違いなく。
それに、ここにいるそもそもの目的が、目の前に出現したのだ。南国少年と能天気に罵り合っている場合じゃない。
熊倉の年季の入ったドライビングテクニックのなせる業か、長大な車体の長距離トラックは時速80キロを下らないスピードでけして広くない住宅街の道を走り続ける。その運転席のすぐ脇に、いつのまにか自転車が並走していた。メタリックブルーの車体、20インチもない小さな車輪、しかも後輪は普通だったら絶対にもう走れないほど酷く損傷している。折れ曲がってひしゃげたホイール、中途で折れて明後日のほうに突き出したスポーク。そしてサドルに座って無表情にペダルを漕ぐのは、その自転車に似つかわしい子ども。プロの競輪選手だってなかなか出せるようなスピードではないというのに、その小学校低学年くらいの子どもは青白い顔に汗一つ浮かべず…代わりに豪雨の雨粒で濡れているが…何食わぬ顔で両足を動かしている。
「おおー、妖怪のオーラだぜー」
「オーラ見えなくても、ま、人間じゃないわね」
前髪全開、ついでに日焼けしたおでこに第3の目もパッチリ全開でやけにハイテンションのねおと、色々あって元気の無くなったみいあが見守る前で、サドルの上の子どもはたち漕ぎをしてぐっと背を伸ばし、ガラス窓から運転席を覗き込む。顔を窓ガラスに押し付けるようにして、ねおがそうしたように、風に負けないように甲高い声で叫んだ。
「ねえ、信号無視したら、危ないよ!」
その窓ガラスが前触れなくスライドして開く。
「おうさ。だがな、走ってる車にひっついて走るのはもっと危ねーぜ、坊主」
予想もしていなかったのだろう。子どもは凍りついたように硬直した。ドライバーは左手でハンドルを握ったまま右手で事故を引き起こす幽霊の襟首をむんずと掴まえた。「零体じゃねーな」チラリとだけわき見し、歯をむいて笑う。子どもの姿をしたものはもがいた…もしもその腕力が見た目どおりでなかったとしても、熊倉の万力のような腕から逃れられるわけがない。
子どもは苦しそうに両目をギュッと閉じて、太い腕にぶら下がる。足がペダルを離れたのに、壊れた自転車はバランスを崩すことなく走り続けている…。
「クマオヤジ!チャリンコ!」
荷台から身を乗り出したねおの、そのまた手から身を乗り出してみいあが叫ぶ。しかし風は前から後ろへ流れてその声も押し流した。熊倉は子どもを捕まえたまま緩やかにトラックのスピードを落とし始め、自転車はそのままの勢いで走り続ける。丸で、自分だけ逃げ出すように。
と、熊倉が掴んでいたはずの子どもの姿がフイと消えた。
「分身か!!」
雷にも劣らない熊倉の怒号。空になった手で悔しげにドアを殴りつける。
「オレにまっかせろーー!」
「なにすんじゃワレー」
続いて雨を割って影が飛び、罵声があがった。ねおが邪魔くさくなったみいあを荷台に放り投げ、屋根を蹴って宙に舞ったのだ。その動きはムササビ…いやまさに南風に乗るという南国の妖精キジムナー。
まだまだ50キロは出ていたトラックの慣性を利用して大きな弧を描いてジャンプしたねおは、忍者のようにシュタっと幽霊自転車のサドルに着地し、ハンドルをガッチリ掴んだ。
ねおを乗せたまま自転車は熊倉のトラックを振り切ってスピードを上げた。その前方、何もない空間がいきなり派手に燃え上がり炎が道をふさぐ。自転車は急ブレーキをかけ、後輪がフワリと浮く。暴れ馬の竿立ちとは逆だが、乗り手はロデオの騎手のように振り回された。しとどに濡れたアスファルトの上を前輪が滑り、いやな音と共に炎の壁に突っ込みそうになる。それでもねおはハンドルを放さない。
炎の壁は雨を浴びて太陽のプロミネンスかなにかのように水蒸気を纏い、ゴウゴウと音を立てて燃え盛っている。自転車は逃げ道を探してハンドルを左右に振った。
「もう逃げられないぞ。ゴーストハンターのねお様が捕まえたんだからなっ」
ねおが得意げに胸をはり、自転車が勝手に勧めないようにギュっとブレーキを握った。
「痛いよ。やめて。どいてよ」
自転車からさっきの子どもの声がする。いったいどこから声が出ているのか不思議でたまらず、ねおは手始めに前籠を覗き込んでみた。
「ど・い・て!!」
そのねおの耳元すぐそばで、駄々をこねる子どものかんしゃくが爆発した。「うお」とっさに目をつぶったがギリギリで間に合わない。鋭い光がねおの三つの目を刺す。瞼の裏に鮮やかな緑色の網目模様がチラチラ明滅し、止まらない涙が瞼の間からこぼれ落ちる。
「いってー…」
光ったのは籠のすぐ下についていた小さなライト。だがその光肩は尋常ではない。明らかに害意を持った、目潰しのため閃光だった。
「いてーじゃねーかよ!」
「だって、どいてって言ってもどかないんだもん」
「どいたら逃げちゃうだろー、おまえ」
「おまえとか言うな!早くどいてよ!」
涙が止まらないままそれでもハンドルにしがみついているねおの肩に、冷たい手がかかった。小さい手と細い腕。さっきこの自転車を漕いでいた分身だろう。そっちを掴まえても何にもならないことは、熊倉が証明してくれた。ねおは彼をどけようと掴んでくるその非力な手を無視して、目を閉じたまま、自分の体ごと横倒しになった。
アスファルトの地面にたまった雨水が、盛大に飛沫を上げる。
「生意気だぞオマエ!オレのが年上なんだからなっ」
「年上とか、関係ない!」
ねおは本気の力で自転車に寝技を仕掛ける。相手が人間型じゃないからマトモな技になっていないが、ねおの本気はパンチでブロック塀ぐらいなら粉々に出来るほどの怪力だ。易々と押さえつけられるはずだった。ところが、
「放せ、バカ、バカ!」
「バカバカ言うほうがバカなんだバーカ!」
暴れる自転車もなかなか手ごわい。二人?一人と一台は地面を転げ回って上になり下になり、
「ねえ、アレなに?」
「ん〜まあ、なんだ、子どもの喧嘩だな」
ようやく、車を止めて降りてきた熊と猫が駆けつけた時にも、まだ勝負はついていない。
「あのさ、あたしには」
みいあがピンク色の舌で鼻先を舐めながら言った。
「陸揚げされたマグロと格闘する漁師にも見えるわ」
「危ねぇ!」
そんなみいあの妄想はキッパリ無視された。ちょうどその時、取っ組み合うねおと自転車が、ゴウゴウ燃え盛る炎の壁のほうへ転げて行ったから。
○●○●○
雨の中燃え盛る炎は、地面の水溜りを沸騰させ、降りしきる雨粒を高温の水蒸気に変える。その中へ、色黒で目が三つある少年とメタリックブルーの車体の壊れた幽霊自転車は、取っ組み合ったまま転がり込んだ。途端に火山の噴煙のように立ち上る湯気。
「あちー」
たまらずねおはとうとうハンドルを手放した。半袖短パンの格好が仇になったのに加えて、吸い込んだ空気が胸を焼く。
「おっさん、あっちーよー」
「悪いな、あとでカキ氷でも食わしてやる」
やっと自由になった自転車は、ねおが誰と話をしているのかかまっている余裕もなく、立ち上がろうと身体を振ったが、自力で起き上がるより簡単だと思ったのか三度子どもの姿をした分身を現わした。
「やっぱり、そっちのほうが話し易いな」
その途端、フイと明かりが消えた。
燃え盛る炎が、幻のようにあっという間もなく掻き消えて、辺りは本来の夜闇に閉ざされ、そして白々しい街灯の弱光だけが降る雨を白い針のように照らす。みいあにはその細い灯りだけで充分だ…瞳孔をまん丸にすればいい。けれど、他の、猫の高性能の明暗適応力を持たない面々にとっては、それは突然訪れた真っ暗闇と同じこと。あ、あとはさっき閃光で目潰しされて元から目をつぶっているねおにも、関係ない話だが。
そしてそれは、どうやら幽霊自転車にとっても同じだったようだ。
「おい坊主、やりすぎちゃあ悪戯も悪戯じゃすまなくなるんだぞ」
いつもの、作務衣姿の気難しげなオヤジの格好に戻った大塚は、いつにもまして唇をぐいっと歪め、眉間に皺を寄せて、めったにないほど厳しい表情と声色で言った。そのあまりの迫力に、子どもは自転車を引いて闇雲に逃げようとする。けれど、ハンドルを握る小さな手を、大きく、熱いほど暖かく、節くれだった職人の手が捕まえた。本体である自転車が分身である子どもを消す間もなく。
ゴツ。
「うわ、痛そ…」
硬いものと硬いものがぶつかる重い音。みいあは首をすくめた。特大の拳骨が、真上から子どもの脳天に落ちたのだ。相手も妖怪だし、大塚には熊倉やねおのような人間離れした怪力はないから、実際肉体的なダメージはなかっただろう。けれど、子どもはびっくりしてポカンと大塚を見上げた。その拳骨には、ただ殴りつけるのとは違う力が篭っていた。その力は多分、まだ誰も科学的に解明できていないものだ。妖怪科学者たちでさえ。
大人が、子どもを“叱る”というkと、それは、“怒る”のとは全く違う。子どもがまっすぐに育ってくれるように願う大人の願い。妖怪たちを生み出すのと同じ、想いの力。その力の前に、子どもは理由なく畏怖してしまう。
「おめぇは、交通事故で亡くなった子どもの幽霊だろう?おめぇがこの世に生まれてきたのは、子どもを死なせた親の無念、残された者の悲しみやら寂しさやらのせいだろうが」
雨の中、大塚は自分の胸までも背丈のない子どもの、無表情とも言える顔を見下ろし、淡々と、唸るように言い聞かせる。
「そのおめぇが、同じように交通事故で人を殺しちゃいけねぇ。同じ課やしみを増やしちゃ、いけねぇだろ…!」
「ちがうよ!」
子どもは震える声で言い返したア。
「りんちゃんは殺そうとなんてしてない。ルールを守らない車に、危ないよって言ってるだけだもん!」
「おめぇ、りんって名前なのか」
子ども、りんは無言で頷いた。
「りん、よく聞け。おめぇのやり方は間違ってる。それは、分かるか?」
りんは黙ったままだった。
「そのつもりが会ったにしろ、無かったにしろ、事実として人が死に、死んだ奴の家族が遺された」
無表情だった子どもの顔が、僅かに歪んだ。
「おめぇがやりたかったのは、そんなことか?」
「ち、ちが…」
「言い訳をするな!」
もう一度、みいあは首をすくめた。ほーらグダグダ言うからめったに落ちないおっさんの雷が落ちたわよ。
「だって、りんちゃんは…どうしたらいいか、わかんないもん…」
りんは俯き、雨音にかき消されそうな怯えた声で、それでも言い訳を止めない。いや、言い訳ではないのだ。本当に、どうしたらいいのか分からないのだろう。幼い妖怪にはよくあることだ。
トラックに轢かれた子どもの幽霊が、自転車に乗って追いかけてくる。その幽霊は交差点で信号無視をするトラックを脅かして、自分と同じ運命をたどらせる。その怪談話が、今はまだ生まれたばかりで見た目以上に幼いこの子どもの全てなのだ。
大塚は拳骨を解いて、子どもの濡れそばった黒い髪をくしゃっとかき混ぜた。
「だったら、教えてやるさ。そのために、大人がいるんだからな」
子どもは怯えた目で再び大塚を見上げた。大塚の顔は厳しくしかめられたままだ。けれど、
「なんだ、全員びしょ濡れじゃねーか。ったく、イカヅチめ、一人でいい気分で帰りやがって」
雨は弱まりつつあった。雷鳴は遠ざかり、稲光もほとんど無くなる。そして、大塚の声から厳しさが薄れ。
「なにはともあれ、銭湯で一風呂あびて、さっぱりしてからだな」
「おっさん、俺カキ氷はスペシャル宇治金時カルーア練乳withスイカがいいな!」
いつのまにか元気に立ち上がっていたねおが、大塚の背中にしがみつく。「目は大丈夫なのか」という問いに、
「ちょー問題無し!伊達に三つあるわけじゃねー!」
と、やや的外れな答えとポーズを決める。
「おい、りん。オマエはかき氷何にするんだよー?」
「カキ氷?」
「なーんだ、カキ氷知らないのか。じゃあ、初心者はベーシックに醤油でもかけとけ」
「いや、それはベーシックではないと思うぞ」
りんは困惑気味に背丈の違う二人を交互に見比べた。
「りんちゃんは、ここの交差点にいなくてもいいの?」
「いいんだよ。んな細かいことは気にするな」
大塚はぶっきらぼうに答え、子どもから目を逸らして空を見上げた。黒雲がかなりの速さで流れてゆく空に、もう稲光の大蛇の姿はどこにも無い。
「大塚のおっさん、いつのまに子どもの扱いに手馴れたわけー?」
「あ、ねこ」
そこに、(猫的に)にやにや笑いながら不用意に近づいたみいあは、子どもの理不尽な腕にたちまち抱え上げられる。
「ちょっと放しなさいよー!気安く触るんじゃないわよー」
「じゃあ、帰るかね」
熊倉もやってきて、大塚に耳打ちした。
「まったく、三宅の言うとおりだな、大塚の」
「あぁ?」
「結花ちゃんが喜びそうだ」
「訳のわからねぇこと言うなよ、熊さん」
その時、背後からけたたましい怒鳴り声がした。
「いいじゃん!乗せろよケチィ!」
「い・や・だって言ってるでしょー!」
「いいから、あたしを放せガキー!!」
オヤジ二人は黙って苦笑を交わした。
○●○●○
「ふーーーん……」
地球に向かってまっすぐ流れ落ちる、艶のある長い黒髪。乳白色の染み一つ無い肌。整えた眉と切れ長でまつげの長い双眸、すっきりと通った鼻筋、グロスではなくて紅を引いた魅惑的な唇。形のいい顎に細い指を当てて、美女はけだるげに相槌を打った。
竹久夢二の掛け軸に登場する美人を現代風にアレンジしたような、香り立つような外見とは裏腹に、彼女のかもし出す雰囲気はあまり芳しくない。言うなれば、昔の娼館の女主人みたいな。
「良かったじゃない」
「静江さん…完全に他人事だろう」
「うん」彼女は嬉しそうに笑った。「当然でしょ」
「若い仲間の教育ってのも、ネットワークの役割だった気がするがな」
苦笑を浮かべつつ、ぐい飲みの清酒をすする大塚。美女はあたりめをしゃぶりながら…それでも絵になるとはどういうことだろう…鼻で笑った。
「だって、私の管轄外から拾ってきた子だしー。それにほら、来年からねおも中学に行くんだから、手が離れるでしょ大塚さん」
「別に…アレは俺の息子でもなんでもねーぞ」
苦虫をかみ締めているような顔をする大塚に、橋詰静江は艶やかに微笑して見せた。
「ちょっとそこー、無責任な戯言はいてんじゃないわよっ」
「あーらみいあちゃん、珍しく人間みたいなカッコしてるじゃないの」
大塚、熊倉、それに橋詰静江が一つ卓を囲んでいるのは、料理やろくろく。みいあは「みいあちゃんのかわいさで売上倍増」の発言が真実かどうか、窮屈な和服を着てバイトの試用期間中だ…間もなく解雇されそうな気配だが。みいあは人差し指を静江にピシリと向けたが、後ろから白い手に耳を引っ張られてそそくさと退場した。
「ま、それはともかくさすが大塚さん、て首尾ねぇ。ただ、好奇心旺盛な娘さんたちに目撃されたって言うのが、らしくないわ」
「それだがな」
口を挟んだのは熊倉、ジョッキにしか見えないピッチャーに1/3ほど残っているヱビスビールをごつりとテーブルに置き、重々しく唸る。
「俺は、人払いの結界を張ったんだがな」
三者三様に何かを深慮するような張り詰めた短い沈黙。
「みいあちゃ〜ん、注文」
「なによっ、あたしは忙しいのよっ」
「店員が客の注文とらないで他に何するって言うの」
再び現れたみいあは、こんな短時間でなぜというほど着物の裾が乱れている。歩幅を小さく歩けない現代っ子なのだ。ぷんむくれながらやってきたみいあは、それでも一応伝票を構える。
「ごちゅーもんは?」
「あんた、今日学校でなんか訊かれた?」
「あぁ」
アルバイト店員はふっと余裕の笑みを浮かべた。
「色々訊かれたけど、うまく言いくるめておいたわよ」
「へぇ〜、何を聞かれたの」
「んー、ねおとかおっさんとかのことを訊かれたわね。あとどうしてあんな場所にいたのー?って。バカじゃない、あんたらが幽霊話調べてこーいって言ったんじゃないのって軽ーくイナシてやったわよ」
「それだけ?」
「うん」
「幽霊関係は?」
「んー。全然」
「ふーーーん…」
静江は再び顎に指を当てて、それはそれは楽しそうにほくそ笑んだ。
「もうあっちいっていいわよ」
「なによ!注文は?!」
「結花ちゃーん、みいあがここでサボってるよー」
「きー!ムカツクー!」
再びみいあが耳を引っ張られて退場するのをにこやかに見送り、彼女は何がなんだかわからないといった様子の男たちを振りかえった。
「心配要らないわね。どうして人払いが効かなかったのかは、いまいち分からないけど」
「心配事は、それだけじゃねーけどな…」
今度は静江は黙って、神秘的にすら見える微笑でだけ、大塚に答えた。
このとき、静江だけが、今始まったみいあの受難と大塚の苦労を、確かに見通していたのかもしれない。