◆プロローグ◆
たった今、夜が去ったばかりのフィーデル河の川辺には、緑を帯びた乳白色の霧がカーテンめいて音もなく揺れている。 幾種類もの小鳥たちが盛んに鳴き交わすにぎやかな声。何をそんなにお喋りすることがあるのだろう、目が醒めたばかりだろうに。もしかしたら今夜見た夢の話でもしているのだろうか。 とはいえ、小鳥のおしゃべりは耳に心地いい。銀の鱗のお魚が一匹、その声に耳を傾けながら川面に顔を出した。この時間、まだ水底は暗闇の中だ。いち早くやってきた朝に、水面まで上ってきては明るい地上を覗くのが、お魚の日課だった。 穏やかな小波の音、風が吹いては霧のカーテンを揺らし、その向こうの梢の葉がさんざめく。静けさと賑やかさの入り混じった地上に、お魚はずっと心惹かれていた。 ふと。 いつもと違う、不思議な音が耳に届く。 それは今まで聞いたこともない音だけれど、強いて例えるなら雨が穏やかに水面を叩く音に似ていた。しばらくじっと耳を傾けているうちに、それが音楽だとわかった。水底の国にも音楽はある。特に大勢が集まって歌う時には、その歌声は地上にまで届き、人間たちの間で神秘的な言い伝えとなっているほどだ。 誰か人間が、川辺で音楽を奏でているのだ。しかし、こんな音は今まで聞いたことがない。いったいどんな人間が奏でているのだろう?お魚は好奇心に駆られてゆっくり泳ぎだした。風上のほうへいくらも進まないうちに、朝霧の薄いカーテンの向こう、川辺の岩の上に片膝を立てて座り、一心に両手を動かしている人影が目に入る。 音楽は彼の両手の中からこぼれだしていた。優美に湾曲した胴に何本もの弦が張ってあり、人間の指がそれに触れるたびに高く澄んだ音色が乳白色のカーテンと川面をかすかに震わせる。お魚は水面から伸び上がるように顔を出し、もっとよく見ようと身を乗り出した。そして、彼が小さな声で歌を口ずさんでいるのを聴いた。 かつて 一羽の神々しき白鳥が羽を休めるうちに その身が山となった 見よ その地に蒼く影落とす森の木々は白鳥の風切り羽なのだ そうでなければ この世に根も幹も枝も葉さえも純白の木などがあろうか 見よ いとも易々と旅人の足を取る大地は永久なる羽毛に覆われているのだ そうでなければ 一点の曇りもない白が見渡す限り続くことなど有り得ようか 戦姫ジークリンデ 第3章より 「白鳥の翼よりなお白きブランウェンワルト」抜粋 「そんな場所が本当にあるのかしら」 「どうだろう」 お魚はびっくりして顔を引っ込めた。流れの音に消えるほどの独り言のつもりだったので。あまり軽々しく人間に姿を見せてはいけないことになっていた。それに、いくらお魚の一族が河を統べる高貴な一族として人間たちに尊敬されているとはいっても、たいていの人間は大きな魚が口をきくのを見れば腰を抜かして驚き慌てるものなので。中には、びっくりするあまり足を滑らせ、川の中に落ちておぼれる人間もいた。 しかし、予想に反して、音楽を奏でていた人間はちっとも驚いた様子を見せず、穏やかに話し続けていた。 「ブランウェンワルトの山々の様子は、金色外套王の伝説でも語られるけど、実際に行って目にした者は何人いるんだろうね。あぁそうそう、この歌はダイエライトという名前の遠い国のお姫様の冒険を歌ったものなんだ。…あ」 お魚は伸ばしかけていた身体をもう一度竦めて水中に沈んだ。人間がこちらの正体に気付いたかと思ったのだ。けれどそれもまた杞憂だった。 「申し訳ありません。ご挨拶もなしに、一方的に話した無作法をお許しください」 お魚が再びそっと水面に顔を出すと、人間は左手に楽器を持ち、右手でゆっくりと地面を摩りながらお魚のいるほうへ向き直っていた。お魚からもはっきり彼の顔が見えた。 まだ若い男だ。しゃんと姿勢のいい身体には柔らかそうで汚れのない上着。栗色の緩やかな巻き毛が落ちる白い顔、その目は両目ともきっちり閉じていた。そのまま、お魚のいるほうへ向けて恭しくお辞儀をする。 「私の名はアイザック。しがない竪琴弾きにございます」 その様子が芝居掛かっていたので、お魚はなんだか楽しくなって、竪琴弾きの調子に合わせて答えた。 「いいえ、こちらこそつい立ち聞きなどと失礼を。とてもすばらしい音色でした、アイザック様」 すると青年はくすりと笑った。 「まるで晩餐会でご令嬢と話しているみたいだ。君は一体誰?」 「私は…」 お魚は少し躊躇ってからそっと言った。「私の名前はアストライア」 「ではアストライア」 「危ない!」 お魚は思わず叫び、尾鰭で水を蹴った…瞬く間に銀色の鱗の魚だった姿がか細い手足の人間の少女の姿に変わる。その腕で、竪琴弾きの腕を掴む。彼は目をつぶったまま彼女のほうへ近づこうとして、岩の淵から転げ落ちかけたのだ。 「おっと、ありがとう」 「何故、目をあけないのですか?!」 少女が厳しい口調で尋ねると、青年は苦笑した。 「開けても、閉じたままでも、変わりはないからかな」 お魚だった少女ははっとして、青年の閉じたままの瞼を見つめた。青年はまるで彼女の固い表情が分かっているかのように、優しい、少し芝居がかった言い方で言った。 「さて、ではアストライア姫、よろしければ続きを聴きますか?それとも何か別の歌にしましょうか。今のは少々寂しい曲ですからね。湖のほとりに立つ水晶のお城の歌は如何でしょう」 「素敵。聞かせてください」 |