◆逃亡◆

もう三時間も続けているというのに、調律はちっともうまくいかなかった。

アイザックは目を閉じ大きく息を吐いて何とか落ち着こうと努力しながら、もう一度弦を強く弾いた。

トーーーン…

弦は悲鳴じみた叫び声をあげた。僅かに、高すぎる。心もち弦の張りを緩め、もう一度弾く。

トーーーン…

今度は下がりすぎだ。彼は思わず右手を握り締め、竪琴の胴を睨みつけた。まるで、手の中の楽器を脅迫でもするように。何度繰り返せば気が済むんだ?あまり強情を張っていると暖炉に放り込むぞ。

だが、心の中にいる冷静なもう一人の自分が「それは大切なものだろう。燃やすどころかちょっと殴りつけただけで、二度と思い通りの音は出なくなるぞ」と窘める。

「わかっているさ、そんなこと」

閉め切った窓の向こうはいい天気らしい。小鳥が能天気に囀る声がかすかに耳に届く。それ以外はまるきり静寂。細かい埃が床に落ちる音さえ聞き取れそうだ。そんな中、竪琴と一対一で向き合い、ただ聴覚と指先の感覚だけを研ぎ澄ませて納得いくまで音を合わせていく作業は、本来気分を落ち着かせてくれるものだった。それが、今は聞き分けのない相棒にこれまで感じたこともないほどの苛立ちを感じる。

理由はわかっていた。焦りだ。彼には余り時間がない。

本当はこんな作業は放り出して荷造りをし、出かけたいところだったが、欠かしたことのない日課だからしょうがない。再び荒々しく息を吐いて、指を伸ばす。

「そんな風に苛々していると、身体に障りますよ」

アイザックの全身が大きく震えた。声は彼の背中側から聞こえた。即ち、部屋の出入り口であるたった一つの扉のほうから。その声には覚えがあった。落ち着いた低い女声のようでもあり、細く未成熟な青年の声のようでもある。その声の持ち主は容姿も中性的で、男性なのか女性なのか判断がつかない。

「実際、それで身体を壊す人も大勢います。気をつけたほうがいいですよ」

「先生、どうやってここに?」

アイザックは振り返りもせずに固い声で問い掛けた。一方、“先生”は対照的に穏やかに、恐らくは微笑みながら答える。

「どうやってって、普通に。そこのドアから。君は集中していたから、気付かなかったんでしょう」

「ハンスは?誰も入れないように言ってあったはず」

「ああ、ご老人に見つかると君に知らせてしまうと思ったので、そうっとお邪魔させてもらいました。私って、わりとお茶目さんなんですよぉ」

アイザックは竪琴をそっと傍らの床の上に置いた。“先生”の冗談めかした軽口をきっぱり無視し、背を向けたまま、顔を向けないままで尋ねる。

「で、どんなご用件ですか?まだ、まだ昼過ぎです。今日はまだ終わらない」

「そうなんだけどねぇ」

背後の声から、微笑のニュアンスが消えた。

「やっぱり、早めに返してもらったほうが君のためにいいんじゃないかと、思い直したわけですよ、アイザックさん。医者としては患者さんの安全を第一に考えたいじゃないですか」

「そんな、困る」

「おやおや、困ったのはこっちですよ。あと数時間、伸ばしたところで何が変わるんですか?」

「……」

アイザックは黙り込んだ。竪琴を床に置いたままのかがんだ姿勢で、床に置いてあった別のものを握り締めた。その冷たく硬い手触り。アイザックの頭にさっと血が昇り、彼はばね仕掛けのように勢いよく立ち上がった。

「おお危ない」

銀色にぎらぎらする短い刃物は、“先生“の整った顔のすぐ鼻先をすれすれで通過した。

「なにをするんですか、アイザックさん」

「先生、これは返せません」

アイザックは竪琴の調音のために腰掛けていた椅子から、カーテンの閉まった窓辺に駆け寄った。さっと開くと、光が音を立てそうな勢いで薄暗かった部屋の中に差し込む。続いて観音開きの窓。鍵は掛けていなかったのですぐに開き、冷たい風が吹き込んだ。

“先生”は琥珀色の目を細め形のいい唇をへの字にして、窓枠につかまった竪琴弾きを睨んだ。それは医者が患者を叱るというよりは、事が思うように進まない駄々っ子の拗ねた顔のようだ。

窓から逃げ出したアイザックを、ただその不機嫌そうな顔で見送り、後に残された先生はやれやれと肩をすくめた。部屋の主が残していった竪琴にふと目を留め、それに話し掛けるように独り言をもらした。

「なんですか、あれじゃあ音楽家じゃなくて曲芸師じゃないですか。なら好きになさい、とは今回ばかりは言えませんね…。やれやれ、困った若者だ」
 弾き手に置き去りにされた竪琴はただ沈黙を守るだけだった。