◆豹変◆
アイザックの姿をすっかり見失ったアストライアとバーディングは、再び町の人々に彼の行方を尋ねながら街中を探し回ることになった。目撃談をたどってゆくと、段々と人の少ない、細い道の入り組んだ地域へと導かれてゆく。平和なノルゼリベルでも比較的治安が悪いという評判のある場所だ。 やがて、人通りも途絶えてしまった。 「本当にこんなところにいらっしゃるのでしょうか」 アストライアが心配そうに周囲を見回す。今まであまり足を踏み入れたことのない地域なのだ。もちろん、アイザックだってこの辺りに来たことなどないはずだった。 「さあなぁ」 バーディングは平然としている。しかし手がかりはなくなってしまったので、泰然と腕を組んで立ち止まった。 「まぁ、逃げ出して誰にも見つかりたくないってなら、こういう場所は隠れるには好都合だと考えるんじゃねえか」 「逃げ出す?いったいアイザック様は何から逃げ出そうというのでしょう?まさか、レオノラ様から?」 「そうかもしれねえし、違うかもしれん」 「そういえば、バーディングさんはどうしてレオノラ様と一緒に、ここにいらしたのですか?」 アイザックのことで頭がいっぱいだったせいもあって、アストライアがそこに疑問を抱いたのは、二人が再会してずいぶん時間が過ぎてからだった。バーディングは微苦笑をもらしつつ答える。 「ああ、今世話になってる姫さんが、あいつを是非パーティーに呼びたいと言っててな。それで招待状を持ってきたってわけだ。家に行ったら留守だとかで、あの姉さんが探しに行くと言うんで、一緒にあいつを探していたのさ」 「まあ、お姫様とお知り合いなんてすごいですね、バーディングさん」 「んなたいしたことはねえよ」 アストライアの素直な反応に、柄にもなく照れ臭そうに顎の無精髭をなぜるバーディング。アストライアが更に何か尋ねようと口を開いたとき、それを遮るように、細い道の先から荒々しい声が響いてきた。二人ははっとして顔をそちらに向けた。 「誰に口きいてるんだ?クズが!死ねよ!」 「あの声は…」 「アイザック様!」 バーディングが何をする間もなく、アストライアは血相を変えて駆け出した。その台詞は絶対に彼の口から出たとは思えないが、その声は明らかに竪琴弾きのものだった。バーディングも急いで追いかける。 角を二つ曲がったところで、二人は探し人を見つけた。 アイザックの足元には男が一人ぐったりと横たわっていた。酷く服装が乱れ顔は殴られでもしたのか腫れ上がっている。バーディングもアストライアも見覚えのあるような気がした…さっきバーディングが追い払った酔っ払った若者だった。 「ご、ごめんなさ…」 「バカが、謝って済むわけねえだろう!」 もう地面に横たわっている男には、力無く声を漏らすことぐらいしかできないというのに、アイザックは激しい罵声と共に彼のわき腹を何度も繰り返し蹴っている。そのたびに蹴られた男は弱々しく悲鳴を上げた。 「アイザック様!」 アストライアは飛び出していって倒れている男をかばってその上に覆い被さった。自分の顔をあげ、アイザックの顔を見上げると、彼の両目は今まで見たことも無いぎらぎらした光を宿していた。まるで別人のような、興奮して我を忘れた熱を帯びた目つき。アストライアは必死に叫んだ。「やめてください!死んでしまいます」 「アストライア…?」 視界に彼女の姿が飛び込んできて、耳にその叫びが届いた途端、アイザックの動きがぴたりと止まった。すうっとその顔から血の気が引く。と同時に目からも熱っぽい光が消えた。 「アイザック様、何があったのですか?この手は」 アストライアは立ち上がり、うろたえているアイザックに近寄って彼の右手を取った。右手はぐっと握られて、指の付け根と第一間接の間がほんのり赤くなっていた。 「この手は、人を殴るための手ではありません。竪琴を爪弾いて、美しい音楽を奏でるための手ではありませんか」 アイザックはそっとアストライアのまっすぐな視線から目をそらせて俯いた。 「いったい、どうなさったのですか?」 重ねて問われると、顔を伏せたまま口の中で「何を言っても言い訳にしか…」と早口に呟いた。 「え?言い訳?」 「…さっきはよくもやってくれたな、勘弁してほしかったら金を出せって、絡まれたんだ。そうしたら、急に頭にかっと血が昇って、気がついたらこんなことになってたんだ」 「まぁ…」 「あんたは暴力を振るうようなタイプには見えないが」 言葉を失うアストライアの代わりにバーディングが言うと、アイザックは顔を上げて勢い込んで言い返した。 「僕だってこんなことをしたのは初めてです!なぜ殴ったりしたのか…自分でも分からない」 「きっと、慣れない環境で疲れたのでしょう。アイザック様、おうちへ帰ってゆっくりすれば、きっと落ち着きますよ」 すると、思いがけなく竪琴弾きの表情が硬くなった。 「いや、家には帰らない」 「帰らない?なぜですか?どこか急いで行く場所があるのですか?」 「そうではないけれど」 「なら、帰りましょう。ハンスさんもレオノラ様も心配されています。出かけるのは明日でいいじゃないですか」 「そうはいかないんだ」 アイザックはアストライアの手を振りほどき強い調子で言い張った。その時、ふとバーディングは竪琴弾きの姿に違和感を覚えた。彼の左手はずっと隠すように背中に回されている。その左手の手首には、実に質素な今の彼の格好とは不似合いな、大きな宝石のあしらわれた腕輪がはまっていた。 その間にも「帰りましょう」「帰らない」の平行線上の会話は続いていた。バーディングはその終わりそうもない押し問答に口を挟んだ。 「あんたの帰りたくない理由ってのは、あんたが逃げ出したことと関係があるんじゃないのかい?」 若者は黙ってバーディングを睨みつけるように見つめたが、別にバーディングは責めるつもりで言ったわけではなかった。 「どうしても家に帰りたくねえなら仕方ない。まだ日にちはあるが、姫さんのところへ行くかい?俺はそもそも、あんたをパーティーに招きたいってヒルデガルド王女のことづけを伝えに来たんだ」 「ヒルデガルド様の?」 アイザックは目を丸くした。バーディングは軽く頷き、懐から白くてつやつやした布を取り出しアイザックに手渡した。 「確かに、これはヒルデガルド様の書かれた字のようですね…。そうか、フィーデル離宮…」 アイザックはその少し皺になってしまった布と、そこにさらさらと綴られた文字をじっと見つめて何事か考え込んでいたが、すぐに顔を上げてバーディングをまっすぐに見た。 「解りました。そうしましょう。今すぐ、ヒルデガルド様の離宮へ連れて行ってもらえますか」 「え!アイザック様、そんな…」 アストライアはおろおろと二人の全くタイプの違う男たちの顔を見比べた。 「今から、すぐ向かうのですか?」 「どうしても帰りたくないって言うんじゃしょうがねえだろう」 バーディングは少々呆れたような口調で言い、 「それがいい、そうしましょう」 アイザックはすっかり乗り気になってはしゃいだ声をあげた。 「でも…」 「どっちにしろ家に帰ったって、一日か二日したらすぐ出かけなきゃならねえ。行き先がわかってりゃ、姉さんだって心配しやしねえだろ?それに、下手に逃げられるよりは」 バーディングは少女の肩に手を置いて、腑に落ちない表情を浮かべた顔を覗き込んで言い聞かせたけれど、アストライアは食い下がった。 「でも、今は、あなたがいつも持っていた竪琴がない。それに、ハンスもきっと心配していると思います。一度無事な姿を見せて、安心させてあげたら…」 「それはできないよ。すぐに出発しましょう、バーディングさん」 「どうして?どうしてそんなに急ぐんですか?あなたは、この町が好きだと言っていたじゃないですか!なのに、どうしてそんな逃げ出すみたいにして」 「そりゃ、町は好きだけど」 アストライアが強い口調で詰め寄ると、アイザックは口篭もった。 「理由は、ないのですか」 「……」 竪琴を持たない竪琴弾きは、くすんだ緑色の両目を閉じてしばらく黙っていたが、やがてそのままで噛んだ唇の隙間からもらすように低く言った。 「君は、なんてお節介なんだ」 「え?」 アストライアはびっくりして訊き返した。アイザックは両目を開いて、彼女の顔を睨んだ。 「もういい。君にはうんざりだよ」 「どうしたのですか、アイザック様?」 突然突き放されて戸惑うアストライアに、竪琴弾きは無表情に、冷たく淡白な口調で容赦なく続けた。 「もう僕に関わらないでくれ。今日一日、君と過ごしてみてよく分かったよ。君のそのお節介はとてもうっとおしい。僕はフィーデル離宮へ行く、君とはここでお別れだ」 「わかり、ました。アイザック様がそうおっしゃるなら…」 アストライアはそんな彼の顔をじっと見つめて最後まで聞いてから、寂しそうに、けれど気丈に微笑みながら、彼から一歩離れた。 「私、アイザック様のおうちに行って、ハンスさんに知らせてきます」 言い残し、身を翻して駆け去ってゆく。その後姿を、アイザックは黙って見つめた。 「いいのか?」 バーディングの問いかけに、「いいんです」とぶっきらぼうに答える。 「それは、心からこれでいいと思ってるやつの言い方じゃねえな」 「いいんですよ。結果的には、こうしたほうが彼女のためなんです」 頑なに言い返す青年に、バーディングは彼の心の中まで見透かそうとするような鋭い目を向けた。 「それはあんたが家に帰りたくない理由と、何か関係があるのかい?いったい何から逃げているんだ?」 途端に、竪琴弾きの表情が暗くなる。 「理由は…聞かないで置いてもらえますか」 「そうかい。俺は構わねえがよ」 バーディングは勿忘草色に暮れ行く空を見上げながら、ため息のように言った。 「だがよ、女の子を悲しませちゃいけねえぜ」 |
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