◆姉と弟◆
上薬を塗って焼いた青い飾り煉瓦葺きの屋根が、琥珀色の夕日を受けていっせいにきらきらと輝く。その様子を、まぶしそうに目を細めてアイザックはじっと眺めていた。 手をつないで一緒にノルゼリベルの町の中を歩いていると、アイザックは色々なものに興味を示した。花壇、噴水、市場に立ち並ぶ店とそこで売られているたくさんの雑貨や色とりどりの野菜、水汲み場に集まる女たちと走り回る子ども、狭い路地裏からのっそりと顔を出したトラ縞の猫にも。 そんな風に何かを見つめているアイザックの横顔が新鮮で、アストライアは彼のそんな顔を見ているだけで胸の中が暖かくなるのを感じた。 「アイザック様、良いお薬が見つかったのですか?」 「え?」 不意に尋ねられ、アイザックは虚を衝かれたようにアストライアを見た。が、すぐに笑顔になって首を振った。 「いや、違うよ。いい医者が見つかった…って言うべきかな」 「そうですか。では、このまま治療を続ければ、貴方の目はすっかり治ってずっと見えるようになるのですか?」 「ずっと、見えるように…?」 アイザックは全く予想外の事でも訊かれたように、困惑して首をかしげた。 「ええ。だって、私が出かけたのはたった半月前です。その時はお医者様の話などされていませんでしたよね。十日ぐらいで、全部の治療が済んではいないのでしょう?」 アストライアとしてはごく当然のことを言ったつもりだったのだが、なぜかアイザックは浮かない顔で、ぶっきらぼうに「もう見えなくなることなんてないよ」と答えると、急に声音と話題を変えた。 「それよりアストライア、一緒に…」 「よぉ、お二人さん。仲がいいねぇ。見せ付けてくれちゃって」 突然、横から飛んできた粗暴な声がアイザックの言葉を遮った。と同時にむぅっとした酒臭さ。不快な熱気がアストライアの肩に触れる。後ろを振り向いてみれば、ごく間近に酔っ払っていると思しき若い男の顔が迫っていた。若いといっても、アイザックよりも何歳かは上に見える、あまり繊細とは言えない様子の男だ。どうやら、近辺のパブでニ三杯引っ掛けて、気持ちよく出来上がった勢いで絡んできたものらしい。アイザックの表情が強ばった。しかし、アストライアはまったく物怖じせずに、酔っ払った男の顔をまっすぐ見返して、微笑みながら言った。 「はい。仲はいいですよ」 酔っ払いは大げさにのけぞった。それを反動にしてぐっと二人に顔を近づけ、酒臭い吐息と共に威圧するように大声をあげる。 「言ってくれるじゃないか、えー?その幸せをおいらにも分けくれよ、お兄さん!」 アイザックの顔がますます強ばり、頬に朱が差した。アストライアは彼のそんな様子には気づかずに、大まじめに酔っ払いの男に答えた。 「アイザック様の弾く竪琴の音色を聞けば、誰でも幸せになれますよ」 「竪琴なんかじゃ、おいらは満足できねえのさ…」 「ほーう。その面白そうな話、俺様にも一枚噛ませろよ」 酔っ払いの更に背後から、また別の声が掛かった。決して脅かすような声音ではない。むしろ気楽に、言葉どおり面白がっているような言い方だ。酔っ払いも含め、全員がその方向に顔を向けた。 「バーディングさん」 「よぉ、アストちゃんじゃねーか」 アストライアが明るい声で呼ぶ。バーディングは軽く片手を挙げ、ウィンクして見せた。一方酔っ払いは明らかに怯み、自分より頭一つ半は上背のある男を見上げた。 「ど、どちら様?」 「この人はバーディングさんといって、とても強い戦士様なんですよ」 アストライアの説明に、彼の顔は歪んだ。が、酒の勢いとは恐ろしいもので、虚勢を張って両手で握りこぶしを作り、顔の前に構える。 「せ、戦士なんつったって見掛け倒しには騙されないぞ。か、かかってこい」 「ほう、いいのかい」 バーディングは意地悪く笑い、右手をぐっと握った。その大きさは酔っ払いの倍ほどもあり、しかも危険な鈍器めいた鈍い光沢の金属でできているのだ。酔っ払いはしばらくそのこぶしを見つめていた。傍目にもその酔いが見る見る冷めていくのが分かる。 「……今日は日が悪いや、止めといてやる…運が良かったと思え!」 やがてありがちな捨て台詞を残して、脱兎のごとく逃げていった。 「やれやれ、次はよく暦を見てから出かけるんだな」 バーディングは握っていた手を解いて、人差し指で頬を掻いた。そのバーディングの後ろから、ひょっこり一人の女性が顔を出した。 「アイザック〜」 「姉さん?」 「レオノラ様?」 並んでみると姉と弟は一目で血縁と分かった。姉は弟につかつか近寄っていくと、その耳を軽くつねった。 「なんだ、アストちゃんと一緒ならそうと言いなさいよ。心配して損しちゃったじゃない」 「いいえ、私も先ほどお見かけして…」 姉は弟から手を離して、アストライアを見た。「あら、そうなの?」 「じゃあ、やっぱり。あんた一人で出かけるなんてどういうつもりなのよ。ハンスはいつでもお供いたしますって言ってるでしょ」 アイザックは不貞腐れた膨れ面でそっぽを向いて黙っている。 「それにしてもアストちゃんと知り合いだったとはな」 バーディングはレオノラの肩にごく自然に手を回しし言うと、レオノラはにこやかに答えながら何気なく体をずらした。 「ええ、二人はね、なんて言うのかしら?仲良し?」 そして意味ありげに含み笑う。 「うちのアイズ君はオクテなのよ」 「うるさいな。用事は何?用がないのなら帰ったらどうだ」 アイザックはいかにも面倒くさそうに、邪険に姉に手を振った。虫でも追い払うような態度だ。レオノラは弟と同じくすんだ緑色の目を険悪に細めて、ゆっくりと言った。 「あんたねぇ、周囲をどれだけ心配させているか分かってるの?」 「心配してくれなんて頼んでないだろ!大丈夫だって自分で判断したから出かけたんだ。いちいち小さい子ども相手みたいに口出ししないでくれよ…」 するとアイザックは両手で顔を覆って顔を伏せたかと思うと、突然身を翻して駆け出した。 「ちょっと!走るんじゃないわよ!」 「あ、アイザック様」 アストライアは呆気にとらわれて空っぽになった自分の手を見た。それから、かけてゆくアイザックの背中。当然ながら、彼がそんな風に走っているのを見るのは初めてだったし、レオノラに怒鳴るのを見るのも初めてだった。兄弟なのだから喧嘩ぐらいするだろう。今まではきっとアストライアのいる前ではしなかっただけなのだろうけれど。 「なによ、あの子」 「あの、レオノラ様。聞いていませんか?アイザック様は目が見えるようになったのだとか」 「え?」 レオノラは両目を見開いて強ばった顔でアストライアに振り返った。その表情を見るだけで分かった。彼女は何も聞いていないのだと。 「でも確かに、あの走りっぷりは目が見えないとは思えないわね…」 「はい」 「でも、どうして急に…。色々なお医者さんにかかったけど、みんな駄目だったのに」 「それはわかりません」 「なぁ、おっかけたほうがいいんじゃねえのか」 「そうね」 「そうですね」 バーディングが二人に声を掛けると、二人の声は異口同音に答え迷いなく頷いた。 「でも。なんだか私が行くと話がややこしくなりそうだわ。バーディングさんとアストちゃんが知り合いだったのは意外だけど…」 そこでレオノラはなぜか言葉を切り、たっぷり呼吸三回分ほどの時間まじまじとアストライアの顔を見詰めた。アストライアはなぜ見られているのか分からず、小首をかしげている。その小鳥のような仕草に、竪琴弾きの姉は表情を緩め「アストちゃんに限ってそんなことないか」と呟いて、先を続けた。 |
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