◆知らせ◆
「分かりましたか?今回はあまりのんびりしていられないという理由が」 「しかし、報酬もなくその音楽家に手を貸したのですか?それはおかしい。虫歯の治療の対価に目をいただくようなあなたが、ただ働きなんておかしいじゃないですか」 「ルードヴィッフィ君、報酬は金品とは限りませんよ。君に教えませんでしたっけ。研究者にとって最も大切なものは?」 「…実験素体」 「ま、そういうことですよ。ほら、目的地が見えてきました。そろそろ黙ったほうがいいんじゃないですか?」 道すがら、何くれと言い渋るかつての師に事情を詳細に語らせたルードヴィッフィは、やや腑に落ちない部分がありながらも口をつぐんだ。 エレーナとルードヴィッフィ、そしてメイフェア。夫婦と赤ん坊というように見えなくも無い一行は、丘のふもとに立つ瀟洒な一軒家の前に着いた。門は開きっぱなしになっていたので躊躇せずにくぐりぬけ、ハーブと姫りんごの植わった気持ちのよさそうな庭を横切る。玄関の前に立つと、計ったようなタイミングでドアが内側から開いた。 「おっと」 メイフェアはすっと一歩下がった。開いたドアの向こうから勢いよく飛び出してきた少女にぶつかられそうになったのだ。少女もびっくりして小さく飛び上がって止まった。 「おや、貴方は」 少女に続いて玄関先に現れたのは、清潔な身なりをした初老の痩せた男だった。彼は来客を目にして少しばかり驚いたように呟いた。少女は男を振り返って訊いた。 「ハンスさん、どなたですか?」 「ええ、こちらはアイザック様が診ていただいていたお医者様で、メイフェア様とおっしゃいます」 竪琴弾きの召使いであるハンスは、手全体でまさにメイフェアを指し示して言い、続いてその隣にごく自然に立っているエレーナを見て困ったように黙った。 「その助手のエレーナです」 仕方なくエレーナは自分で名乗った。しかし、銀色の髪をした少女は全く聞いてなどいなかった。他には目もくれずに琥珀色の目を細めているメイフェアに詰めより、頭一つ分は上方にあるその顔に噛み付くように詰め寄った。 「あなた、いったいアイザック様にどんな治療をなさったのです?!」 「やぶからぼうに、込み入った質問ですねぇ」 「だって、たったの十日で人の目が見えるようになるなんておかしいじゃありませんか。いったいアイザック様に何をしたんですか!」 「世の中には色々と不思議なことがあるのですよ。君は奇蹟を信じますか?って、それは少し違うなぁ」 医者はその整った造作の顔に薄ら笑いを貼りつかせながら適当に受け流す。ここでその質問にまともに答えるつもりはさらさらないのだ。銀髪の少女はそんな医者をあからさまな不審の目で睨んだ。 「それより、アイザックさんはこちらにはいらっしゃらないのですか?」 メイフェアが少女をからかうほうにかかずらってしまいそうだったので、釘をさすようにエレーナが話題を変えた。アイザックという単語が耳に飛び込み、アストライアが反応して彼女を見た。 「ああそうでしたね。実は彼に…」 「ルードお兄ちゃん?」 本題に入ろうとしたメイフェアの台詞を遮って、少女が呟きというにはやや大きすぎる声で自問した。次の瞬間にはそれは疑問ではなく確信になっていた。 「ルードお兄ちゃんでしょ?!」 その水面のように青い目はまっすぐにエレーナを、いやエレーナの腕に抱かれた赤ん坊を見ている。 医者は満面に笑みを貼り付けて、ゆっくりと赤ん坊に顔を向けた…ルードヴィッフィ君、君らしくも無い手抜かりですねぇ。その喜色満面の右頬に、一片の躊躇いもなくエレーナが左フックを叩き込む。 その場の五人中、唯一全く事情のわからないハンスは顔をしかめて他四人を順番に見比べたが、誰一人として事情を説明しそうな気配が無いのを察すると、諦めたように肩を落として言った。 「とにかく、立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」 医者と助手と赤ん坊、それにアストライアが応接間に通されて、ハンスがお茶のしたくのために姿を消すと、アストライアは奪い取るような勢いで赤ん坊をエレーナの腕の中から抱き上げた。エレーナも拒まずに素直に少女に赤ん坊を渡す。アストライアはそのまま部屋の隅へ小走りに駆けて行って、医者から見えないように調度品の陰に隠れた。 「あ、別にお気遣いは無用ですから」 殴られた右頬をさすりながらソファに沈み込んでいたメイフェアが伸び上がって二人に声をかけたが、アストライアはそれをきっぱり無視して、赤ん坊に囁きかける。 「あの人はいったいどういう人なのですか?お医者様だというのは本当なのですか?」 久しぶりですねとか十五年ぶりでしょうとか、どうして赤ん坊のまま成長しないのですかとか、余計な挨拶は一切抜きだった。赤ん坊は小さく咳払いをして勿体をつけてからいかにも残念そうな調子で囁き返した。 「あれは…やさぐれた、ろくでもない医者です」 「ろくでもない?!ではアイザック様はあの人にお金をたかられたりしているのでしょうか」 「いや、もっと性質の悪いことになっているのでしょう」 赤ん坊はやけに大人びた同情の眼差しで少女を見上げた。 「アイザックさんに、何か変わった様子はありませんでしたか?」 「変わった様子…」 アストライアは首を傾げてゆっくりと答える。 「そうですね。苛々して、怒りっぽくなっていたように思います。それと…いつものアイザック様と違っていたのは、目が見えるようになっていたこと」 「ふむ、なるほど。…貴女になら話しておいたほうがいいでしょう。それは彼が持っていた腕輪の力なのです。おや?その様子では彼が腕輪をしていたことには気づいていなかったようですね」 アストライアの困惑顔を見て、ルードヴィッフィは何気なく言葉を補った。ルードヴィッフィは話題の的である竪琴弾きにチラとも会ったこともないとは思えないような訳知り顔で、彼女に言い聞かせた。 「そう、そのあなたが気づかなかった腕輪が、彼の目を見えるようにしたものなのです。一種の魔法です。しかし、それこそが彼の身を危うくしかねないものでもあるのですよ」 「どういうことなのですか?」 「あの腕輪を長時間つけ続けていると、彼に良くない影響を及ぼすそうです。もともとが邪悪な竜の目から作られたものらしいですからね」 「それではアイザック様の命も危険だってことですか?!」 「さぁ…それは分かりません」 アストライアが目を丸くして赤ん坊の体を目の前に持ち上げると、彼は無邪気そのものといった仕草で首をかしげた。そして、エレーナと並んでソファに沈み込んでいる医者のほうへチラリと一瞬目をやってからぼそりと続けた。 「なにしろ、あのやさぐれた医者の作ったものですからね」 「大変!すぐにアイザック様に知らせないと!!」 アストライアは叫ぶと同時に駆け出した。右腕にルードヴィッフィを、左腕にアイザックの竪琴を抱えたまま。その勢いはまさに脱兎のごとく、メイフェアが慌てて立ち上がったときには彼女は部屋のドアを潜り抜けて廊下に姿を消していた。 「エレーナ、捕獲しろ」 アストライアの腕に必死にしがみついたルードヴィッフィが去り際に言い残した言葉に忠実に従って、エレーナが半ば呆然としていたメイフェアの体を背後から抱きしめた。 「ちょ、ちょっと放してください。ルー…あー、えーっと、エレーナさん!」 「はい、何か?」 メイフェアは自分の体に両腕を回して抱き留めている女を見た。彼女はごくまじめな顔つきのままでしっかり医者の体を捕まえている。力はそんなに強くはないけれど、メイフェアも腕力にはそう自信のあるほうではなかった。それに、彼女の腕は優しい柔らかさに欠けていて、力いっぱい抱きすくめられていると痛い。 メイフェアは諦めてため息を吐いた。 「ばかやろー…」 油断していた自分に、今ごろほくそえんでいるであろう赤ん坊の姿をした弟子に、そしてこのばかばかしい状況に、そっと罵声を浴びせずいは折れない心境だった。 |
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