◆ノルゼ湖◆
ヒルデガルド王女が用意した馬がよほど頑丈なのか、はたまた竪琴弾きが男にしては華奢なせいか、とにかく黒馬はバーディングとアイザックを乗せてもびくともしなかった。 「男と相乗りする趣味はねえんだが」 「生憎、こればっかりは僕にもどうしようもありませんよ」 バーディングがぼやくと、アイザックは苦笑した。完全に暗くなる前に、峠は越えておきたかったので、お互いしばらくは辛抱することにする。ノルゼリベルの町へ入るときには、彼の家のあるほうから彼の姉と相乗りしてやってきたのだが、今度はそれとは逆の方向へ続く丘を登る。 小高い丘を登りきったところからは、町と、町を映しこむ鏡のようなノルゼ湖が見渡せた。太陽は二人の進もうとしている方角へ沈みかけていて、その景色を顧みると背中越しに濃い朱の光が差す。紫を帯びたネイビーブルーの空を背景に、一日の最後の光を浴びた煉瓦造りの町が、くっきりと浮かび上がっていた。 バーディングが思わず馬の歩みを留めさせるほど、その色の対照は美しかった。 「もう少し早い時間に」 バーディングの背後でアイザックが呟いた。それとほぼ同時に、するりと鞍から滑り降りる。バーディングが黙って見守っていると、青年は瞬きもせずに両目を見開いて町と湖を見つめながら、独り言のように続けた。 「ここから眺めると、湖はまるで黄金でできた鏡のように輝いて、今よりもずっと美しいんですよ。…まあ、僕はまだ見たことはありませんが。前に、アストライアと二人でここに来たことがあって」 「ほう」 青年はアストライアという名前を口に出してから少し黙った。目は相変わらずノルゼ湖に釘付けだ。 「彼女はここからのこの眺めを一生懸命説明してくれました」 『とてもきれいですよ。空は真っ青に澄んでいるし、湖はきらきら光っていて、その周りには柔らかそうな若草色の草が茂っていて。アイザック様、ほら触ってみてください』 言葉よりも彼女の声がはしゃいでいたから、それがどんなに美しいものか理解できた。暖かい手が彼の手をつかんで、地面に生えた柔らかな草に触れさせた。クローバーか何か、丸い葉っぱの草で、甘くて青いいい匂いがした。 「そうかい。じゃあ、あんたにとってはこの景色は初めて見るもんじゃないってわけだ」 青年は照れくさそうに微笑んだ。 「そうですね。ずっと心に描いていたのと同じだ」 そして視線を湖から外して振り向いた。 「行きましょうか」 バーディングは黙って頷いた。アイザックは鞍に手をかけたが、その姿勢のままで動きを止めた。何をしてるんだ?バーディングが不審に思って首をひねると、彼は鞍の端を掴んで見上げた体制のままで顔色を真っ青にしていた。 「あれは、なんでしょう?」 「あ?」 アイザックの視線を追ってバーディングも上空を見上げる。ちょうど二人の視界を横切るように、黄昏の空色を凝縮したような影が飛来するところだった。それは雲のさらに上を飛んでいるようだったが、屋根の上に止まっている鴉を地上から見ているのと同じくらいの大きさに見えた。蝙蝠のような大きな皮翼、長い首と尻尾。バーディングは同じ生き物をつい半日前に見ていた。 「まさか、あれは話に聞く竜?」 竪琴弾きの声は僅かに震えていた。なぜなら、その巨大な生き物は上空からつぶてのように降下していたから。明らかに、平和で無防備なノルゼリベルの町に向かって。 バーディングは手綱を引いて黒馬の向きを変えさせながらアイザックに言った。 「まさか、町へ戻るんですか?」 「おまえは見捨てるつもりか?」 「でも、僕らが戻ったぐらいで何ができるというんです?相手は竜なんですよ!」 バーディングは青ざめた竪琴弾きに静かに問い掛けた。 「あんたの歌った歌に、あの美しい町を題材にしたものはあるかい?」 「あ、あります」 竪琴弾きは何故そんなことを問われるのか分からないまま頷いた。 「このままあの町が壊滅しちまったら、その歌を聴いてヒルダ王女はどう思うだろうな?」 「……」 「きっと悲しむだろうなぁ」 アイザックは顔をゆがめて唇を噛んだ。そして、搾り出すように「戻りましょう」といった。 アイザックがあぶみに足をかけてひらりと鞍に飛び乗るか乗らないかのうちに、バーディングは馬の腹を蹴って駆けさせ始めた。 「それによ、アストちゃんのことも心配だろ」 激しく揺れる鞍上で、バーディングがそんなことを呟くのを確かに聞いたけれど、それは馬蹄の轟きにかき消されたことにして何も答えなかった。その代わりにアイザックは不安げに呟いた。 「なぜ、突然竜が…」 |
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