◆ジュギドラル◆

竜は怒り狂っていた。

長い時を生きてきたが、今までにこれほどの怒りを感じたことはなかった。青い光沢のある鱗一枚一枚まで全てが逆立つような不快感と苛立ち、そして言いようもない憎しみ。

憎い憎いあの自称医者を八つ裂きにしてやったが、それでも怒りは収まらない。それにあの盗人は彼から盗んだ目を持っていなかったのだ。

忌々しい。忌々しい。

額の真ん中の空っぽの眼窩が、あるはずのものが足りないことを訴えるかのようにドクンドクンうずく。その重くて熱い痛みが竜の怒りを一層掻き立てる。

ちっぽけな、地上をはいずり回る者の分際で!

竜は怒りに任せて吼える。その声はまるで雷鳴だ。鳥や獣は恐怖で竦みあがり、眼下の森は静まり返っている。鈍感な人間どもばかりが、怯え逃げ惑う羊の群れに困惑しきっている。

竜は雲よりも高い場所を飛びながら、盗まれた目をずっと探していた。竜には七つの眼があったが、最も強い魔力と視力を持っていた額の目を盗まれた為に、残り六つだけでは自慢の千里眼の力も思うように働かない。お陰で、まるで下等な生き物のように五感を頼りにするしかなかった。

七眼の魔竜と呼ばれた、このジュギドラルが!

再び怒りの咆哮をあげるとその声は大気を震わせ、突風となって空にかかる茜色の雲を微塵に砕いた。そうだ、もう日が暮れようとしている。西の空はジュギドラルの鱗の色を真似たような群青から、毒々しいオレンジ色へ変色し、東の空は既に重苦しく濁った溝鼠色になっている。

竜は苛立ってその長い首を振った。

そのとき、自分を取り巻くつむじ風の中に、捜し求めていた匂いが混じっていることに気付いた。馴染み深い匂い。それは自分の一部であったものが近くにあることを示している。

七眼の魔竜は残された三対の眼をかっと見開いた。

その視線の先には、黄昏に沈む小さな田舎町があった。

ジュギドラルが翼を一打ちすると突風が吹き、彼とその町の間に横たわっている森を、牧草地を、けたたましい音を立ててなぎ払った。竜はその突風に乗ってつぶてのように一直線に町に降りて行く。

最初に目に付いたちゃちな塔に取りつき、吼える。

我が盗まれし眼を返せ!我から眼を盗んだ報いを受けろ!

ちっぽけな人間の群れが甲高い悲鳴を上げながら逃げ惑うのを、半ば愉悦に浸りながら見下ろし、翼で大気を打つ。打たれた空気は見えない巨大な槌となって、辺りの家々や通りを逃げ惑う人間を容赦なく打ちのめす。たちまち辺りに血の匂いが満ちた。竜の残虐な心がそれに刺激されて昂揚し、彼は更に何度も何度も羽ばたいては町を破壊した。

真の目的を忘れかけるほどの興奮。

その熱に水をさしたのは、さっきよりももっと近くはっきりとした自分の一部の匂い。

竜は羽ばたくのをやめて、首をめぐらせた。顔の、他の生き物と同じ場所にある一対の眼、長い首の真ん中辺りの一対の眼、そして掲げた翼の先にある一対の眼が四方八方をくまなく見渡す。そして、見つけた。他の人間と違い、悲鳴をあげもせず、逃げ惑いもしない数人の男女を。そこから、盗まれた目の匂いがした。それと…アルカナの欠片、力の欠片の匂いも。

竜は今度は静かに翼を一打ちし、その巨体に似合わない軽々とした動きでそちらへ近づき、覗き込んだ。

「その腕輪に付いている宝石は、あの竜の目だったものです」

「アイザック様、すぐにそれを捨ててください!」

女が二人。片方は赤ん坊を抱いている。赤ん坊はこんな状況だと言うのにけろりと落ち着いた表情で、はっきりと喋っていた。普通なら言葉など話せるはずもない嬰児が、大人びた…いやむしろ老獪な口ぶりで喋っていると言うのに、それをおかしいと思う人間はその中にはいないようだ。

「そいつを着け続けるとどうなるんだ?」

「まぁ、最終的にはああなる…」

男も二人いる。片方は人間にしては太い腕を組み、喋る赤ん坊に鋭い目を向けている。もう片方は、太い腕の男と比べるといかにも華奢だ。そして、その隠すように背中に回っている左手首には、夜空そのもののように凝縮した青の丸い貴石をはめ込んだ腕輪をはめている。

竜は腕輪を凝視した。それこそが、ずっと捜していた彼の額の眼球だった。

片方の男の問いに答えて、赤ん坊がそのカエデの葉めいたあどけない指でジュギドラルを指差し、男女の視線が彼に集まった。竜は翼を掲げ口を開きその尖った巨大な牙を剥き出しにした。

「ふむ。銀が被せてありますね」

だが赤ん坊が独り言のように呟いた言葉によって、人間たちの注意は竜の牙の鋭さではなく、虫歯の治療跡に向いてしまった。ジュギドラルは苛立って人の言葉で唸った。

「それを返せ、ちっぽけな人間ども」

赤ん坊を抱いていないほうの女が弾かれたように華奢な男を見た。男は左手を背中に隠し、腕輪のはまった手首を右手で覆って後ずさる。

「いやだ…」

女が男のほうへ小さく一歩踏み出すと、男はさらに三歩退がった。

「アイザック様!」

「いやだ!」

男はくるりとその場の全員に背を向け、脱兎のごとく駆け出す。その線の細い影はあっというまに逃げ惑う人波に飲まれてしまった。竜は長い首を伸ばして伸び上がり、翼を掲げてその行方を追う。人の目では見失ってしまったかもしれないが、まだジュギドラルには六つの眼が残されており、逃亡者がどちらへ逃げて行くのかを追うことが出来た。

人間風情が竜の目と翼から逃れられるものか。ジュギドラルは揚々と飛び上がろうと翼を広げたが、その前に女が立ちはだかった。赤ん坊を抱いていないほうの、銀色の髪をした女だ。ジュギドラルは顔にある一対の目を細めた。その女は人間ではなくザルムだと分かったので、ザルムは人間よりも格段に美味しいのだ。

「何故、こんな酷いことをするのですか?」

アストライアは家よりも大きな竜に物怖じせずに話し掛けた。竜は横目で我が目の位置を確認した―そんなに遠くへは行けないだろう、ここでザルムと聖痕を頂いた後にゆっくり追っても問題なかろう。そんな打算の後で、不機嫌に鼻息を吐く。

「酷いだと?いったいなにが」

「目を盗まれて怒るのは分かります。でも、町の人たちは関係ないのに」

「あのやぶ医者なら、この町にはいませんよ」

女に続いて赤ん坊が言った。竜は目を細めたままそちらを見据えた。さっきから、赤ん坊を抱いた女は一言もしゃべらずに、代わりに口をきくにはまだ早すぎるような乳飲み子が滑舌良く皮肉な口調でしゃべる。よく見れば赤ん坊を抱いているのは精巧な作り物だ。ジュギドラルは鼻息を強く吐いた。額の目さえあれば、こんなことは一目でお見通しだというのに。

「あいつはもう八つ裂きにしてやった」

「おや、もう気が済みましたか」

「気など済むものか!目を取り戻してから、ゆっくりいたぶってやればいいということだ」

「目を取り戻したら、あなたの傷は治るのですか?」

竜は虚を突かれて、アストライアを見下ろした。そんなことは考えていなかった。ただ、盗んだ者には報復を、盗まれた物は取り返す。それはいわば竜の本能だから。竜は嵐のような激しい鼻息とともに言った。

「そんなことはどうでもいいのだ!」

「あのやさぐれた医者ならあるいは…」

赤子が小さく呟いた声など耳に入らなかった。

おしゃべりはもうたくさんだ。

「おまえ達の持つ聖痕を食らって、我が目を取り戻し、その後ゆっくり考えればよいことだ!」

「やれやれ、やっぱりそう来るか」

苦笑い含みのそんな台詞とほぼ同時に、ボウッと短く低い音、そして目を射る明るい金色の光が生じた。引っ張られるような全員の注目を集め、軽く肩をすくめた鉄の腕の男が一歩前へ進み出る。その手には抜き放たれた剣。明るい光は、その剣の刀身にまとわりつく火炎だった。
 人間というのは不味いものだが、この刻まれし者どもは輪をかけてジュギドラルの口には合わないようだった。