◆嵐◆
竜は咆哮した。人間には理解できない言葉で、ありったけの罵声を天にぶつける。 それが戦いの始まりの合図だった。 竜がその青い翼を羽ばたくと、激しいつむじ風が巻き起こった。いや、それは完全な竜巻だ。この町を瓦礫の山に変えるほどの威力がありながら、竜巻の直径は僅かバーディングの大またにして十歩分ほどもない。つまり、竜に対峙した三人の刻まれし者たちをと一体のクレアータをちょうど包み込むほどの大きさだ。アストライアは両腕で顔を覆って体を小さく縮めた。それでも彼女の軽い体は今にも吹き飛ばされてしまいそうになる。必死で堪える彼女の体のあちこちに飛ばされてきた大小の石くれがぶつかり痛みが走った。 ようやく暴風が過ぎ去って顔を上げると、最初に目に飛び込んできたのは大きな背中だった。 「バーディングさん」 バーディングはアストライアと青い竜の間に立ちはだかって、少しでも彼女の風除けになろうとしてくれたのだ。大柄な鉄の腕の戦士の顔はアストライアからは見えないが、竜巻にさらされた短い髪が炎のように逆立っているのだけが垣間見えた。その大きな背中ごしに、翼を広げて牙を剥き出しにした竜の姿。 「うおおおおおお!」 バーディングは大声をあげながら剣を振り上げて竜に突進した。数歩の突進のうちに、暴風にかき消されていた彼の剣の炎は蘇り再びその刀身に絡みつく。オレンジ色の炎に彩られた剣を気合の声と共に打ち下ろす。竜はそれを無造作に前脚の爪で払った。 キーンとけたたましく甲高い音が鳴り響く。 竜の爪は一本一本が人の使うブロードソードほどの大きさがあった。バーディングの燃え盛る剣は受け止めた爪の側面を嫌な音と共に滑り、細かい鱗に覆われた指に当たりそこを焦がした。巨大な竜にとっては小さな火傷程度の痛みだったが、それでも竜は怒りの叫びをあげてもう片方の前脚でバーディングの胴体を薙いだ。 (あぶない!) アストライアが声をあげるより前に、バーディングの重いはずの体は派手に吹き飛ばされていた。瓦礫だらけの地面を二回転がって、見た目よりも軽い身のこなしで立ち上がった。 「ほーう、さすがに硬えな」 けれども無傷というわけにはいかない。バーディングは口の中の鉄臭く赤黒い液体を吐き捨て、大きく息をついた。彼の生身の肌が露出しているのは顔だけだからよく分からないが、右の肩あたりや左のわき腹に怪我を負っているようにアストライアには見えた。さっきの竜巻に巻き込まれて負った傷もあるだろう。アストライア自身も全身に無数の切り傷を負っていて全てがずきずきと痛むのだから。 青い竜は停まっていた家の屋根から、その美しい屋根の半分以上を蹴散らし破壊しながら下りた。今度は長い尻尾を鞭のようにふるって全員をいっぺんに薙ぎ払おうとした。その足元に細いガラス管が転がっていく。竜はまったく意にも介さずガラス管を踏み砕き,一歩踏み出した。そして、痛みに悲鳴をあげた。天を裂く雷鳴のような悲鳴が、ノルゼ湖の水面まで奮わせた。 いつのまにか,ずっとエレーナに抱かれていたはずの赤ん坊が彼女の手を離れて、一人ですっくと立っていた。ガラス管はルードヴィッフィがそうっと転がしたものだった。同じガラス管をルードヴィッフィのもみじのような手がもう一本握っている。その中にはうっすら湯気を立てる透明な液体がたっぷり入っているのだった。 「なにをしたのだ!足が千切れそうだ!!」 竜は地団太踏もうとしたが、ガラス管を踏み砕いたほうの右足が地面にくっついてしまって離れない。無理やり引き剥がそうとすれば激しい痛みに襲われる。竜は悔しさのあまり翼をめちゃくちゃに羽ばたいた。するとその羽ばたきが起こす風はまたもや渦を巻いて小さな竜巻になって、アストライアたちに襲い掛かった。 竜が壊した町の破片がびしびしと礫となって降り注ぐ。アストライアが顔を上げると、自分の腕がすっかり痣だらけになって、それだけでなく痛みのあまりうまく動かないことに気付いた。急いであたりを確かめると、バーディングは相変わらず両手で剣を構えて立っているがその顔は歪んでいた。小さな赤ん坊は風に飛ばされないようにそこらの大きな瓦礫にしがみついていた。ルードヴィッフィから少し離れたところでは、エレーナがぎこちない動きで後ずさっている。竜巻に巻き込まれない場所まで下がっているつもりなのだろうか。 アストライアはすっと深く息を吸って、右手を真っ直ぐに天に差し伸べた。彼女には、敵を倒す力はない。けれどこんなとき、闇の鎖に囚われた者や闇の霊質から生まれた邪悪な者と対峙するときどうするべきかは分かっていた。けして大きくはないがはっきりとした声で、生まれ故郷の言葉を紡ぐ。 『河よ、命を運ぶ水よ。王の娘の招きに応じよ』 風のせいではなく彼女の銀色の長い髪が翻るとそれはまるで清らかなせせらぎのように見える。柔らかく淡く青い、水の中から空を見上げるような光があたりに満ちる。 「すげえな、アストちゃん」 バーディングがにやりと笑みを浮かべた。みるみるうちに体のあちこちから痛みが引いてゆく。 「これなら、多少無理したってかまわねえわけだ」 アストライアが手を下ろすと、光もすっと消えた。痛いほどの視線を感じて、彼女は顔を上げた。青い竜が彼女を見下ろしていた。竜の顔にある一対の目と、額の空っぽの眼窩のそこにはないはずの目が、憎悪に満ちた眼差しで彼女を射抜こうとでもするように凝視していた。アストライアはぞっと背筋を震わせた。竜が恐ろしかったからではない。 (アイザック様…) その目が、夕暮れ前に路地裏で暴力を振るっていたアイザックの目とそっくりだったから。確かに、アイザックは変わってしまいつつあるのだ。町を壊し、聖痕を欲するこの竜と同じものに。 アストライアはきっと睨み返す。目を盗まれたという竜への憐みは全て捨てると決めた。 戦いはそう長くは続かなかった。竜がどんなに竜巻をあやつろうとも三人を一網打尽に殺してしまう威力はなく、傷はすぐにアストライアによって癒されてしまう。鋭い爪を振るって邪魔な娘を串刺しにしようとしても、必ず間にバーディングが割り込んでくる。鉄の腕を持った不味そうなこの男は竜の爪を払い、受け流し、受け止めてしまう。少しぐらい傷つけても痛みなど感じていないかのように頑丈なのだ。その上、いまいましい赤ん坊が何かわけのわからないものを投げつけてくるたびに、竜は体の自由を奪われていく。 「こんなはずはない!ちっぽけな人間なぞに千里眼のジュギドラルが撒けるはずなど」 額の目さえあれば、額の目さえあれば。その思いが一層苛立たしい。 竜はこれまでに収集してきた聖痕の力さえ惜しみなく振るったというのに、劣勢は覆らなかった。 やがて、鉄の腕の戦士の炎の剣が竜の長く太い首をその半分まで抉った。いかな竜といえど、そんな傷を負っては倒れるしかない。最後の力を振り絞り、使徒アクアの力を解放する。バーディングの首にも同じ裂傷が走り盛大に血しぶきを上げた。竜でさえ死ぬ傷を人が負って生き延びられるわけがない。竜は満足して三対の全ての目を閉じた。 「バーディングさん!」 アストライアは慌てて倒れた戦士のもとに駆け寄った。右手を拳に握り、両目に涙をいっぱいにためて。 けれども、アストライアが覗き込むとバーディングはぎょろりと目を動かして彼女を見上げ、不適に唇を歪めてからむっくり体を起こした。 「無事だったのですか」 「ああ」 バーディングは立ち上がり、血まみれの首をぬぐって見せた。一本の細い傷。致命傷とは決して呼べない。けれどごく浅く血管を傷つけたらしく、血ばかりは派手に飛び散ったのだった。アストライアは安心してにっこり笑った。 「まあ、日頃の行いの良さの賜物だな」 実際は使徒ウェントスの加護のおかげなのだと、アストライアも分かっていたけれど何も言わずに頷いた。無事なら、それでいい。 そのとき、二人の背後から短く声がかけられた。その声は甲高く幼いが、年不相応の緊張感が込められていた。 「あれを」 赤ん坊が丸っこい指で指し示した先をたどり、アストライアは息を飲む。そこにはきらめく10個の星のかけらが浮かんでいた。人が手を伸ばせば届くほど、低いところに。 本来なら、星のかけらはすぐに天に還るはずだが、誰か自分の分を超えて力を欲する者が近くにいると、星はその欲に引かれて天に昇ることができないのだ。 誰が?思い浮かぶのはただ一人。 |
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