◆最後にその目に焼き付けて◆
湖から吹き上げる冷たい風が激しく髪をなぶっても、彼は身じろぎもせずに立っていた。彼と、彼を追ってきた者たちの眼前に広がるのは、夕暮れ時には黄金の鏡になって町を映しこむというノルゼ湖。けれど、日没をだいぶ過ぎた今は、ほのかに青みを帯びるばかりで何も映さない。ただ、風が水面を細かく波立たせていた。 アストライアは腕に膝掛けにくるんだ竪琴を抱き、アイザックまで十歩あまり離れたところで足を止めた。 赤子を抱いたエレーナとバーディングはその更に手前で歩を止め、二人を見守っている。 ノルゼ湖とアイザックのもとを吹きすぎてきた風が、アストライアの長い銀髪を翻し、頬の温もりを奪う。彼女がそこにいることに気づかないはずは無いのに、アイザックはじっと波立つ湖面をにらんだまま動かない。 意を決して、アストライアは再び足を進める。 「アイザック様」 名前を呼ばれても青年はなんの反応も示さなかった。 「アイザック様」 もう一度名前を呼びながら、アストライアは手を伸ばせば彼に触れられるほど歩み寄った。そしてじっと彼の背けた目を見詰める。今まで見たこともない、青ざめた無表情なその横顔。思い出してみれば、出会ってから今日の日まで、アイザックは穏やか表情以外彼女に見せたことはなかった。単純に優しい人なのだと思っていたが… 「もう、僕に構うなと言ったのに」 青年が、曇った緑の眼差しを湖から動かさずに、愚痴のように呟いた。アストライアは改めて彼の横顔を見直した。そして、できる限り穏やかに、静かに言った。 「アイザック様、お願いです。その腕輪を捨ててください」 アイザックはのろのろと腕を上げて、左の手首にはまった魔法の腕輪を右手で隠すように覆った。 「嫌だ…」 「それを外さずにいると、アイザック様がアイザック様ではなくなってしまう」 「それでも、嫌なんだ」 アストライアがなおも言い募ろうと息を吸い込んだ時、彼は彼女へと視線を動かした。 「もう一度、見えるようになるなら、何を代価に払ってもいいと考えていた。そして、僕は再び色のある世界に帰って来た」 「でも、それは!」 「邪悪な竜の目?」 アイザックは小さく笑った。それは妙に乾いた、無機質な笑いだった。 「言っただろう。何を代価にしてもいいと。性格が変わるぐらいのことなら、なんでもないよ」 「性格が変わる、どころの話ではないのです。アイザック様の魂が闇の鎖にとらわれてしまうんですよ。そんなこと…私は」 「分かってるよ」 アストライアが瞬きもせずにまっすぐに見つめると、アイザックは気後れしたように下を向いた。 「だから、もう僕に構わないでくれと言ったんだ。君は」 そして、大きく息を吸い、それを吐き出す勢いで言った。 「君はお節介すぎる!もううんざりだ。いいじゃないか、僕がどうなろうと。君には関係ないだろう?僕の勝手だろう!」 アストライアは相変わらず瞬き一つせず怒鳴る彼を見つめ、静かに頷いた。 「…あなたがそう望むなら、分かりました、私はもう貴方の前から消えます。でも、これを受け取ってください。あなたにとっても大切なもののはずです」 彼女が差し出したのは竪琴。アイザックの手がぴくりと震えた。それを構えたときの重み、それを爪弾くときの弾力、それと対峙するときの緊張感。彼の目が光を失ってからの15年間、最も長い時間をともに過ごしてきたもの。その感覚が彼の手によみがえる。 が、アイザックは差し出されたそれをチラリと見ただけですぐに顔を背けた。 「いらない」 「なぜ?」 とうとうアストライアがはっきりと悲しい顔をする。 「あなたにとっても、大切なものでしょう?」 「僕は変わる。今までとは違う人間になる。だからもうそれはいらない」 「違う人間になんかならなくてもいいじゃないですか!私は、あなたの奏でる音色が大好きです。レオノラ様も、お姫様も、町の人たちも、みんなあなたの竪琴が好きなのです!あなたの竪琴を聞けば、みんな幸せになれるんです!」 「僕は幸せじゃない!」 アイザックの叫びは彼が歌うときの声とはかけ離れてひび割れていた。 「いくら竪琴が弾けたって、一人じゃ何もできないんだ。出かけることも、食事をすることも、何も!家の中ならともかく、初めての場所へ行けば誰かが手を引いてくれなければ本当に何もできない。僕は、だから、誰にも嫌われないように必死だった。宮廷にいくらでもいるあのおべんちゃら使いと同じ…いやそれ以下だ!」 そこであえぐように大きく息を吸う。勢いで胸に詰まっていたものを全て押し流そうとするように、早口で話しつづける。 「いつか、僕の音楽が飽きられて、誰にも見向きをされなくなったら…そこにはただ目の見えない役立たずが残る。姉さんも、ハンスも、…それに君、アストライアも、僕をただ負担に思うだろう。そうなったら?僕はもう生きていけない。そんなのは嫌なんだ。そんなのは…いつか見捨てられるんじゃないかとびくびくしながら生きるのはもう、嫌なんだ!」 アイザックの頬は乾いていた。見開いた目からは涙はこぼれていない。けれどアストライアには彼が泣いているように見えた。隠しつづけていたけれど、悲しくて、不安で、本当はずっと見えない涙を流しつづけていたのだ。 「つらかったのですね。悲しかったのですね」 アストライアが優しく言うと、アイザックの顔が歪んだ。 「分かるもんか…」 「ええ。私にはきっと、アイザック様がどんなにつらかったか、分かってはいないのでしょう。でも、これからは解ろうとすることができます。貴方が苦しんでいることを、理解しようと努力します。それでは、駄目ですか?」 けれどアイザックは頑なだった。彼女の優しい顔から目を背け、何度も小さく首を振る。 「解るわけが無い。そんなおためごかしなんかいらない。もし、本当に解ろうとするのなら、その…」 そこでアイザックはぎょっとして言葉を切った。自分が、何を言おうとしているのか、その言葉が喉を出かかったところでようやく気づいたのだ。だが止めるのが遅すぎた。何を言おうとしたのか、はっきりと彼女に伝わってしまった。彼女は微かに首をかしげて、ゆっくりと瞬きした。 「貴方の本当の苦しみを理解できるのなら、私はこの目を潰します」 何の躊躇もなく、アストライアは言った。 「目だけでは足りないなら、耳も、手も足も。ただ一つ、命だけは保っていたい。死んでしまったら貴方のそばにいられないから。でも、それ以外なら…」 アイザックはそんなアストライアをただ呆然と見つめていたが、彼女がゆっくりと腕を上げてその白い、細い指を閉じた瞼の上に当てようとするに至って、突然身を翻して走り出した。 「アイザック様!」 もはやあたりは完全な夜闇に包まれていた。ハイデルランドの夜は暗い。細い爪月の微かな明かりがノルゼ湖の湖面で頼りなく揺らめくばかり。その湖のほうへ、一散に走るアイザック。その後をアストライアも追い、更にバーディングとエレーナも追った。 「アイザック様、走っては危ないです!」 石くれのごろごろする足場の悪い地面。アストライアは必死で叫んだ。彼が走って行く先は、湖に向かって切り立った崖になっているのだ。もしそこから転落したら、とても無事ではすまないだろう。 アイザックは崖の一歩手前で止まり、追ってきた彼女を顧みた。怯えている?なぜ。私はまた、この人を傷つけるようなことを言ってしまったのか?アストライアは胸を抑え、そして自分がずっと抱えていた荷物のことを思い出した。竪琴を傷つけないようにそっと地面に置く。 「駄目だ、それ以上近づくな」 「アイザック様…」 アイザックは固く強張った声と表情で彼女を制止した。だが、目は彼女を正視できない。 「なぜですか。誰も貴方を見捨てたりはしません。貴方はみんなを幸せにできる、素敵な力を持った大切な人なのに」 「違うんだ。僕は、君にそんな優しい言葉をかけてもらえる人間じゃない」 アイザックは声を必死に絞り出す。 「そんなことありません」 「君に…君に恐ろしいことを言った。目を潰せ、なんて!あの言葉はこの腕輪の、竜の気性が言わせたんじゃない。僕が…僕自身の本心なんだ。こんな汚い、惨い、最低な人間が君の近くにいたら、いつかきっと君を傷つけてしまう…」 言いながらアイザックは半歩後ずさった。 「そんなことはありません。あなたは、優しい方です」 「誤解だ!」 「いいえ。本当に心の美しい人でなければ、あなたの歌声や竪琴の音色があんなにも美しくなるはずはありません。それに…」 アストライアは躊躇った。初めて、彼から視線を外した。 「私にも、あなたに知られるのが怖くて、画していたことがあります」 「え?」 「できれば、隠しとおしたかった。でも、見ていてくださいね」 にっこりと決意の笑み。そして彼女は口の中から何か、小さな飴玉のようなものを取り出した。アイザックが呆然と見詰める前で、少女の全身を、青い、よく晴れた日のノルゼの湖面を思わせる柔らかい光が包む。光はほんの一瞬で消え去り、後には、 「まさか…川の民。ザルム?」 細い月明かりに細かい鱗をきらきらと反射させて、人の身の丈ほどもある大きな魚が観念したように横たわっていた。よく見れば、その胸から腹にかけての鱗の明るい銀色は、アストライアの紙の色ととてもよく似ている。いや、同じ色だ。 「そうです。私は本当は水界の住人。いくらザルム族と人間族が友好な関係でも、あなたには言えませんでした」 彼女がお魚の姿でいたのはゆっくり二呼吸するほどの短い間だった。再び青い光とともに瞬時に人の姿に戻ると、彼女は恥ずかしそうに顔を伏せた。 「あなたが、私のことをごく自然に、人として接してくれたから、私もあなたと一緒にいたいと思ったのです。それに、あなたは地上の色々な景色を教えてくれました。でも、私の本当の姿を見て、びっくりされたでしょう…?」 アイザックは何も言えずにただ首を横に振った。自分でも自分の心が分らなくなっていた。いったい何を否定しているのだろう?彼女が人間じゃなかったことが、受け入れがたいのか?違った。確かにびっくりはしたけれど、アストライアは最初から不思議な、神秘的なといってもいい雰囲気をもっていた。川の民ザルムだったというならそれも合点が行く。 なら、何を? それは自分だ。彼女を傷つけ、隠しておきたかった本当の姿まで曝け出させ、それでも彼女のことを信じることができない自分。アストライアが優しい言葉をくれるたび、かえって自分の醜さが浮き彫りになるような気がして、ますます殻の中に閉じこもろうとする自分。 いなくなったほうがいいのではないか。どうせ、そのうち竜の気性に飲まれてもっと邪悪になるのだ。かといって、自分から光を捨てる勇気もない。 アイザックは何かから逃げるように、じりじりと崖のほうへ後ずさる。 「いい加減にしろよ。まだ分らねえのか」 その槍のような声は意外な角度から飛んできて、アイザックの動きを止めた。 「おまえはいつも、いつか捨てられるんじゃないかとびくびくしてたって言ったが」 その場にいた全員の視線を釘付けにして、バーディングはその鉄の腕を組み、静かだが厳しい声音でゆっくりと続ける。 「同じ不安や恐怖を、今、おまえ、が彼女に味あわせているんだ」 「え…」 「おまえに捨てられてしまうんじゃないかとな」 アイザックは恐る恐るアストライアのほうを向いた。真っ先に目に飛び込んでくるのは、まっすぐに彼の目を見詰める青い双眸。気丈にも保ち続けられた穏やかな微笑。けれど、目を落としていくと…彼女の細い肩、差し伸べた手、そして旅装のために子供っぽく見える足。ひざ頭が小刻みに絶え間なく震えていることに気づく。アイザックは彼女の震える膝を何か奇妙な物でも眺めるように、しばし凝視した。 「アイザック様…」 その短い言葉、彼の名を呼ぶ彼女の声は、今までと同じに優しく穏やかで、一点の曇りも無い春の日差しのようだ。なのに、竪琴弾きの耳には、それがまるで迷子の雛鳥の叫びのように悲痛に響いた。アイザックは目を皿のようにしてアストライアの眼差しを受け止めた。 そして、小刻みに震えている彼女の肩を、その震えを止めたくて、ぎゅっと抱いた。 「私が、あなたの目になります」 「なら、僕は君の何になれる?」 まだしゃがれている囁きに、アストライアはしばし考え、消え入りそうな小声で言った。 「あなたは水です」 「水?」 「私が地上で生きていく支え。私は水がなければ息もできないのですから」 アイザックはその答えを聞いて、微かに頷いた。アストライアを抱きしめたまま首をめぐらせて、既に夜の暗がりに沈んだあたりの景色を、空とノルゼ湖に浮かぶ細い月を見回した。それから、両目を閉じて彼女を抱いていた腕を解いた。 無言で、左手の手首から腕輪を抜き取り、湖のほうへ投げ捨てる。 一呼吸分の間を置いて、小さな水音が彼の耳に届いた。そっと目を開ける。 「星が、空に戻っていきます」 アストライアが明るい声をあげた。アイザックは彼女が向いている方向に顔を向けた。 ノルゼリベルの町の中心、ちょうど竜のジュギドラルが倒された場所から十個のきらめく光の粒が音もなく空へ昇っていくさまを、町の鏡である湖が映しこんでいた。 |
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