◆血臭◆
どこまでも平行に続く、二本の轍。 それは、この道を馬車が定期的に行き来していることを示している。 その二本の平行線の間を、一人の女が二人の子供を連れて歩いていた。まだ一歳にもなっていないだろう乳飲み子を背中に負ぶって、五〜六歳であろう子供をスカートの裾につかまらせて。 子供の足取りは重く、なんども遅れそうに鳴っては彼女のスカートを引っ張った。彼女もそう早足で歩いているわけではないが、それでも疲れた子供の足にはついていけないのだ。三度それを繰り返したところで、女は立ち止まり柔らかな声で話し掛けた。 「休憩しましょうか」 声音と同じく柔らかく優しげに微笑する女の顔を見上げて、子供は黙って頷いた。 道端は牧草地が広がっていて、、姿は見えないが遠くから羊の声が聞こえた。日が傾いてきた空には茜色に染まった雲が浮き、冷たい西風に押されてゆっくり流れている。二人は柔らかな叢の上に並んで座った。 子供は、座ったままそわそわと何度も空を見上げた。落ち着きなく何度も尻を浮かせたり地面に両手をついたりして座りなおす。女は子供にお茶の入った水筒を差し出しながら言った。 「大丈夫ですよ」 「うん…」 返事はしたものの、子供はまったく上の空で、西から東へ流れる雲を恐れ混じりの眼差しで見上げていた。その様子につられるように、女の抱いている赤ん坊も空を見上げた。 「あの空と同じ色の竜が、突然降りてきて村が…お母さんが…」 「もう竜は来ませんから」 思い出して、しゃくりあげ始める子供。その頭を女が優しく撫でた。 この日の昼前。エレーナは赤ん坊を抱いてこの道のはるか手前を歩いていた。もうすぐ小さいながらも村がある、というところまで来たときに、不吉な匂いが風に混じった。赤ん坊は彼女の腕の中で不満そうな声をあげ、エレーナはなだめるようにその背中を撫でて赤ん坊を抱きなおした。 明らかに、その匂いは村のほうから漂っていた。例えるなら、錆びた鉄くずの匂いをもっと凝縮させたような…むせ返るような、そう血の匂い。 エレーナはそれでも表情を動かさずに、村を目指して進んだ。 そこは、もはや村ではなかったけれど。 元はどこにでもあるような小さいながらも活気ある農村だった場所に残されていたのは、瓦礫と廃材ばかり。大きな竜巻に巻き込まれでもしたのか、質素な造りの民家や家畜小屋や納戸はことごとく柱は倒れ、壁は破れ、屋根は飛ばされてなくなっていた。そして、その瓦礫の下敷きになって息絶えている村の住民たち…いや、そうではない。そこかしこに倒れ付し、動かなくなっている遺体の大半は、何か鋭い爪痕のような傷が刻まれていて、それが致命傷になっているのだった。 さらに、同じように息絶えている家畜の中には、その腹部をごっそり何か巨大な獣に食い尽くされたようなものもいた。 エレーナは赤ん坊をしっかりと抱いたまま村の真中の広場に立ち、ぐるりを見回した。 なぜか、死肉喰らいの鴉さえも寄り付いていない死の村にぞっとするような静けさが満ちる。白々しいほど明るい真昼の日差しに照らされて、原形をとどめているただ一つの建物が、否応なしに目に入った。この村で、唯一石造りだったのだろう教会だ。 近寄ってみると、教会もとても無事といえる状態ではないことが分かった。触れただけでエントランスの両開きの扉はガタリと重い音と共に落ちた。中に入ってみると、全ての窓は破れ屋根も半分飛ばされていて、明るい光がめちゃめちゃになった礼拝堂に差し込んでいた。静まり返った室内に、コツコツとエレーナの足音だけが響く。礼拝堂の中央あたりまできたとき、もう一つ別な音がした。エレーナは立ち止まった。 首をかしげて耳を澄ます。 う……う………うう… 押し殺してはいるが高い、人の声のようだ。途切れ途切れに聞こえては消え、消えたと思うとまた聞こえてくる。 不意に、エレーナがしっかりと抱いていた赤ん坊がむ彼女の服の襟元を引っ張り、むずかるような声をあげた。そして短くて丸々した両腕と両足を精一杯ばたばたと動かしてもがく。まるで、抱き方が気に食わないとでも言いたげに。 エレーナは少し困ったように眉根を寄せ、赤ん坊を抱きなおし、そして何を思ったか体をかがめて赤ん坊を教会の床にそっと置いた。冷たい石の敷かれた、椅子やその他なんだか判らない破片の散乱した床に。赤ん坊は地面に降りた途端に機嫌を直し、勢いよくはいはいし始めた。大人が歩くのとそう変わらない速さで、障害物をよけながらすいすいと進んでゆく。 「ああ、いけません。待って」 エレーナの声ががらんどうの礼拝堂の床に壁に響いた。かっかっと硬い足音と共に赤ん坊を追いかけるが、赤ん坊は鬼ごっこでもしているつもりなのか、楽しそうに笑いながら祭壇のほうへ近づいていった。 するりと、祭壇の裏に消える。 「こら、だめじゃないですか」 そのぷくっとした手が宙に浮いた。やっと追い付いたエレーナがひょいと捕まえたのだ。赤ん坊は不満そうに「だぁ、だぁ」言葉にならない声をあげて抵抗したが、彼女は構わず抱き上げる。そして、ふと祭壇の奥に別の誰かがいることに気がついた。 「あら?」 物陰の暗がりの中から、まん丸に見開かれた二つの目が見上げていた。さっきから聞こえていた声の正体だったのだろう。それはすすけた顔を涙でべちゃべちゃに濡らした子供だった。年端五歳か六歳か、ごくごく一般的な農村の子供といった恰好の子供。まるで幽霊でも見るようにぎょっとして凍りついたその表情に向けて、エレーナはにっこりと笑いかけた。 子供の両目に、見る見るうちに涙が溢れてこぼれた。 「ああーーーー!恐かった、恐かったよぉぉーー!」 涙でべちゃべちゃの顔をゆがめ、あらん限りの声を振り絞りながら、子供はエレーナの足元に這いよってきて、ぎゅっとその足にしがみついた。しがみつく手も全身もガタガタ大きく震えている。エレーナはしゃがみこみ、よしよしと子供の頭を撫でた。同じ動きで彼女の腕の中の赤ん坊まで子供の頭に触れた。 子供が疲れきって泣き終わるまで、エレーナは辛抱強く待った。 「なにがあったの?」 やがて少し落ち着いて、それでもしゃくりあげつづける子供に、静かに尋ねる。 「突然…空から青い竜が飛んできて…嵐みたいに風が吹いて」 恐ろしい場面をありありと思い出し、子供の喉が引きつった。 「神父様が僕にここから動くなって言ったの。外からすごい音がしたけど…後はわからない」 「そう。恐い思いをしたのね」 エレーナは再び震えながら泣き出した子供の肩に右手を乗せた。 その後村中を巡ったが他に生き残りは一人もいなかった。しばらく泣きじゃくり、涙が収まった後に優しく尋ねると、隣村に伯母が住んでいると子供は答えた。 |
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