◆消えた竪琴弾き◆

さあ おめかしをしようリベラ 今日は夏至祭り

とっておきの深緑のドレスには鈴蘭のビーズをちりばめて

赤毛髪には青い髪飾りを

頬には雛菊の紅を差そう

リベラもう日が暮れるよ 彼女は慌てて鏡を覗く

黄金の鏡に映る その輝くばかり美しさ


ノルゼリベルはどこにでもあるような小さな町だ。

周辺の農村から集まる農作物や毛織物を扱う市場だった場所に、いつのまにか人も集まって町になった。そんな成り立ちもまた、よくある話。

夏になるとすずらんの咲き乱れる牧草地と森に囲まれていて、北西にはノルゼ湖という美しく澄んだ湖もある。町のシンボルになっているライトグレーの石で造られた教会の鐘楼塔。民家の屋根はほとんどが煉瓦造りだけれど、少し富裕な家では青い上薬を塗って焼いた飾り煉瓦を使っていて、橙の水面に浮かぶ青い泡のようだ。それに、それらをぐるりと囲む背の低い市壁。風のない日、湖は鏡のようにそんな色とりどりの町を映しこむ。

本当にどこにでもあるような、静かな田舎町。

けれど、そこは一人の竪琴弾きに愛されて歌になり、それを聴いた姫君のお気に入りの町なのだ。

そのノルゼリベルの南の門を、一人の少女が駆け抜けた。

珍しい銀髪はまっすぐに長く風になびいている。その長い髪がなければ少年かと見間違えていたかもしれない。羊のなめし皮のズボンにシャツ、旅人が履くような頑丈なブーツ、それに羊毛織のマント。どれもくすんだ色合いの地味な旅装だ。

彼女は軽い足音と共に町の通りを駆けた、。最初の辻に差し掛かったところで立ち止まり、きょろきょろと見回す。ちょうど辻に面したパブから店主らしき中年男が現れた。夕刻の店開きのために、店の前の黒板に白墨で何か書き付けた。今夜の特別メニューはラムのビール煮込みとマッシュポテトであるらしい。

「すみません」

その声は彼女の格好とは不釣合いなほど上品だ。中年男は手を止めて振り返る。

「アイザック様をお見かけしませんでしたか?」

「アイザックさんっつーと、あの音楽家のアイザックさんかい」

「はい」

「そういえば、さっきそこを通ったな」

店主が酒焼けしただみ声で答えると、少女はほっとして微笑んだ。

「どちらへ行かれましたか?」

「ん?あっちじゃねえか」

「ありがとうございます!」

深くお辞儀して丁寧に礼を言うと、少女は再び駆け出した。「あっち」と指された方向へ。

走る彼女の手には、一通の手紙がしっかりと握られている。市民の間でやり取りされる手紙は、王侯のそれとは違って羊皮紙や東方スティール産の紙などではない。丁寧に削った木片にインクで短く綴られた文字は、教養を感じさせる読み易いものだ。

『アストライアへ。

10月の最後の日までに帰ってきてほしい。

どうしても話したいことがあるんだ。

アイザック・ベルトーニ』

「アイザック様が手紙を寄越すなんて、よっぽどのことに違いないわ」

少女、アストライアは小走りに駆けながら呟く。何度か、人とすれ違うたびに同じ質問を繰り返して、手紙の送り主を捜した。

「アイザックさんならここを通ったよ」

「いいや、今日は見かけてないねぇ」

「アイザック?誰だそれは。竪琴弾き?知らないね」

「そういえばさっき、ぼうっとした様子で歩いていたわ。一人でお出かけなんて珍しいなって思ったの」

アイザック・ベルトーニはノルゼリベルでは有名人だ。彼はノルゼリベルの郊外に住んでいる竪琴弾きで、町の新年と夏至祭り、それに救世母の聖誕祭では毎年欠かさずその演奏を披露する。まだ二十歳そこそこだというのにその竪琴と歌の評判は高く、王都フェルゲンの貴族からお呼びがかかることもしばしばだ。最近ではエステルランド王国の王女に気に入られて、竪琴を賜った。

この町に住んでいて彼の名と顔を知らないのは、まるっきり音楽に興味がないか、祭りが始まった途端にもう酔っ払っている呑んだくれぐらいのものだろう。

そして、アストライアにとって、アイザックは特別な存在だった。アストライアを広い世界に連れ出してくれた恩人。あるいはそれ以上の好意を抱いてはいたけれど、それをなんと呼ぶのかはまだ分からない。

彼と出会ってから二年が経った。これまでも何度か、アストライアは父の指示に従ってノルゼリベルを離れて旅に出たことがあった。そんなとき、アイザックは帰ってきた彼女から旅先の話を聞くのをとても楽しみにしていたが、こんな風に手紙をよこしてまで呼び戻したのは初めてだった。その上、急いで郊外にある彼の住まいを訪ねた彼女を迎えたのは、召使のハンス老人だけだった。

「アイザック様なら、先ほど、大変慌てた様子で出てゆかれましたが」

「え…。どちらへ?」

「さあ?行き先は告げられずに出かけられましたので」

ハンスはいかにも憤慨だといわんばかりに首を振った。「こんなことは初めてですよ!」

そんな老人に丁重にお別れの挨拶をして、アストライアはノルゼリベルへ走った。ほかに、アイザックが行くような場所を思いつかなかったから。

どうしても話をしたいこととは何かしら?

何か、悪いことがおきたのでなければいいけれど。

彼女が手に持ったままの手紙をぎゅっと握り締めたときだった。前方から、切れ切れに楽器の音が聞こえてきた。

確か、この先には噴水のある広場が開けていたはずだ。
 アストライアは小走りに夕暮れ直前の道を走り抜けた。