◆不吉な影◆

栗毛の馬は汗に馬体をぐっしょりと濡らし、両目を見開いて疾走した。フィーデル離宮の厩にいた中で一番体格がよく頑丈な馬だったが、甲冑を着込んだ騎士並みの重量の荷物を乗せて駆け徹しでは、さすがに息も上がる。

そろそろ休憩どきかという考えがバーディングの頭に浮かんだ。

うららかに晴れた、陽気のいい日だ。牧草地の間を縫う道は丁寧に均されていて、予想していたよりもずいぶん道程ははかどった。もうすぐ目的の場所、音楽家アイザック・ベルトーニの家にも着けるだろう。バーディングは手綱を緩めて馬を速足にさせた。

左手で手綱を握ったまま、右腕を上げて大きく伸びをしながらあくびする。鞍上で重心を動かされて、馬が歩きにくいと抗議するように首を振った。

「よしよし、まあそう不機嫌になるなよ」

まったくあくびが出るのもしょうがないような陽気なのだ。空高いところでは、ひばりがチュクチュクと鳴き交わして…さっきまでいたのだが。

「ん」

不意に周囲が暗くなった。不審に思い何気なく上を見上げると、さしものバーディングも呆気にとらわれるものが目に飛び込んできた。

「なんだありゃあ…」

栗毛の馬と乗り手の上で日を遮ったものは、かなり上空に浮かんでいるのだろにその影が彼らをすっぽり覆うほど巨大だった。全体的には蜥蜴に似た体躯、長い首と長い尻尾、優雅に広げられた皮翼、そして全身を被うのは陽光を跳ね返して鋭く光るコバルトブルーの光沢のある鱗。そういう形をした生き物は一般的に「竜」と呼ばれる。

さすがに王女の厩にいた馬だけあって、栗毛の馬は取り乱しはしなかったが、落ち着きをなくして耳をぴくぴく動かした。仕方なくバーディングは馬を止め、上空に意識を集中させる。青い竜はほとんど翼を動かすことなく悠々と飛び去った。

バーディングは太い指で顎に生えた無精髭をこすりながら、記憶をたどる。

暗いほど青い鱗の竜の話を、旅の途中何度か小耳にはさんだことがあった。七眼の魔竜ジュギドラルという名前で、西風に乗って現れては町や村を襲う。伝説に残るような、アウルヴァングの火竜やトリエル湖の白竜に比べれば見劣りするものの、千里眼の魔力でどんな遠く離れた地も見通し、風に乗って飛来してはその翼で大嵐を起こし殺戮をほしいままにすると言われ、恐れられていた。そんな竜が、自分が向かっているのと同じ方角へと飛んでゆくところへ出くわすとは…。

「こいつは、やばいかもな」

そう呟くとバーディングは再び馬を駆けさせはじめた。

しかし悪い予感とは裏腹に、日が傾き始めるころ何事もなく一人と一頭は目的地へたどり着いた。街道を飛ばしていると、右手の少し奥まった丘のふもとに小ぢんまりとしてはいるが瀟洒な白壁の家が木立に囲まれて佇んでいるのが見えた。枝道を速足でしばらく進むと門に着き、バーディングはそこで馬を下りた。庭はよく手入れされていて姫りんごの木とハーブが行儀よく並んでいる。ローズマリーのいい香りがした。

「あら、どちら様?」

音楽家の家なんてものはこういうものかと感心しつつ、バーディングが庭を覗き込んでいると、ちょうど玄関から出てきた若い女性と目が合った。栗色の長い髪のなかなかの美人だ。彼女はロングスカートを翻して門のところまで小走りに駆け寄ってきた。

「俺はバーディングってもんだ。手紙を届に来たんだが」

「あら、郵便屋さん?もしかして弟に用事かしら?」

彼女は門の閂を外して、白く塗られた格子状の門を薄く開けた。

「でも、ごめんなさい、弟は今留守なんですよ。ハンスが言うには一人で行く先も告げずに出かけたって。まあ、すぐ帰ってくるとは思うけれど。お姫様からいただいた大事な竪琴を置いていきましたからね」

「そうかい。そのお姫様ってのはヒルデガルド王女のことかい?」

すると、音楽家の姉だという女性はとても嬉しそうににっこり笑い、自分のことのように誇らしげに、一段高くなった声で言った。

「そうです。とても光栄なことですわ」

「そのヒルデガルド王女からの招待状を持ってきたんだが」

バーディングは懐から白い布を取り出した。それは上質のシルク地のハンカチで、色とりどりの糸を使ってエステルランド王家の紋章が刺繍されていた。高価そうな布地に黒インクで走り書きがしてある―アイザックさん、パーティーにご招待します。そして署名。

そのハンカチを見て、女性はくすんだ緑色の目を丸くした。明らかにもう一段声のトーンが上がった。

「まあ、お姫様からの使者の方でしたのね。中へお入りください」

「使者なんてたいしたもんじゃないが。待たせてもらえるなら助かる」

遠慮なく彼女が開けた門をくぐる。女性は慌しく玄関のほうへ掛けてゆき、中へ呼びかける。

「ハンス!お茶とお菓子を二人分用意して」

やがて、ドライフルーツの入った四角いビスケットといい香りの紅茶が運ばれてきた。バーディングは最近甘いものを食べることが増えたなと取り留めなく思いながらも、遠慮なくいただく。

「今ね、ちょうど弟を探しに出かけようと思っていたところなんです。一人で出かけたようなので…」

「ほう。だが、弟さんはもう立派な大人なんだろ?そんなに心配するほどのことはないんじゃないか」

「それが…弟は子どものころに熱を出して、それからずっと目が不自由で。だからいつも出かけるときは、私か召使のハンスがついていたんですけど」

「そうか。そいつは心配だな」

バーディングは深刻に顔をしかめてみせた。

「そういうことなら、俺も一緒に探そう」

「まあ、ありがとうございます」

「なーに、礼ならこのお茶一杯で充分さ」

「まあ」

ニヤリ笑いつつ気取った台詞を吐くバーディングに、彼女は笑顔を返した。応接間の入り口に石像のように控えていた初老のハンスが、不機嫌そうに咳払いを何度もしながら、聞こえるか聞こえないかの声でぶつぶつ言う…「お茶一杯で充分などと浮いた台詞が臆面もなくでてくるなど、ろくでもない男に決まってますぞ、お嬢様」だが、その程度のことではバーディングは全く気にも掛けない。

「もうすぐ日も暮れそうだし、出かけるなら早速出かけるか。ところで、あんたの名前は?」

「私はレオノラ。ノーラって呼んでね」

いち早くソファから立ち上がって差し出したバーディングの手に、エスコートされなれた様子でつかまり、彼女は立ち上がりながら名乗った。けれど、立ち上がるとそっけなく手を引っ込め、笑顔はそのままだがやや意地悪そうな口調で続ける。

「あのね、うちの弟は宮廷に出入りしている楽士よ。弟は奥手なほうだけど、宮廷楽士なんていうのは女たらしの代名詞みたいなもの。私はそんな手合いを掃いて捨てるほど見てきたのよ。それに、私には夫がいるの」

そして「帽子を取ってくるわ」とさっさと応接間を出て行った。

努めて無表情を保ちながらちらりと視線を寄越したハンスにあえて聞こえるように、バーディングは苦笑交じりに一人ごちた。
 「うーむ。人妻もまたよし、と」