◆アイザック◆

ノルゼリベルの町並みの道に、家々の壁に反響しながら切れ切れに弦の鳴る音が聞こえてくる。近づくにつれて少しずつはっきりと。

アストライアはため息をついた。違う。それは探し人の奏でる音楽とは違っていた。楽器は竪琴ではなくリュートだし、バラバラと乾いた音色と多少の不協和音を含んでいる。未熟な、或いは素朴な音楽。

それでも彼女は引き返したりはせずに広場にたどり着いた。

この町で、アイザック様以外の音楽を聞くのは珍しいわ。心の中で呟きながら、広場をぐるりと見渡した。

広場の真中、噴水の傍に吟遊詩人らしい若者が立ち、リュートをかき鳴らしては有名な叙事詩を歌にして歌っていた。彼の周りには23人の子供たちがしゃがみこんでものめずらしそうに見ている。大人はそそくさと広場を歩きながら、吟遊詩人をチラリと見ては、意味ありげな微笑を浮かべて通り過ぎてゆく。

その時!公子の剣に雷が宿る

父の仇を討ち果たし、母の呪いを解くために

仲間たちも立ち上がる

最強の鬼の騎士

海の力を操る魔道士

公子を想う心優しき娘

そして謎めいた隠者

雷の公子と四人の仲間たちは、帝国の大軍の前に立ちはだかった!

聴衆は少なくても、技量は足りなくても、歌い手は気持ちよさそうに声を張り上げる。題材はアストライアでも知っている英雄物語だ。けれど、彼女が前に聞いたのと少し違っているようだ。アストライアは小首をかしげた。公子の仲間は三人ではなかったか?

だが、そんな些細な疑問はすぐに吹き飛んだ。

広場の向こう側、彼女とはその吟遊詩人と噴水を隔ててちょうど逆側に、探し人の姿を見つけたから。

稀代の音楽家は広場の端にひっそりと立っていた。生成り地の麻布シャツとスエードのズボンという、普段町へ出かけるときには身なりに気を使う彼らしくない地味な恰好で。

栗色のゆるい巻き毛は肩に触れるほどの長さ。久しぶりに見るような気がする目は深い淵のようなくすんだ緑色をしている。端正な顔には心なしか血の気が薄く、ぼんやりした表情で噴水の傍のリュート弾きを見つめていた。

「アイザック様!」

アストライアが明るい声で呼びかけると、彼ははっとなって彼女を見た。

「良かった。急に出かけられたというから、心配していたのですよ」

アイザックはいそいそと駆け寄ってくるアストライアに、まぶしそうに細めた目を向けてはにかんだように微笑んだ。アストライアはそれに違和感を感じる暇もなかった。それほどアイザックを心配していたのだ。

「そうか。今日までに帰ってきてくれと手紙を出したんだった。急いで帰ってきてくれたんだね。ありがとう」

「いえ、そんなことはいいのです」

竪琴弾きはアストライアの顔をじっと、ゆっくり二呼吸分ほど見つめてから、照れくさそうに話し出した。

「実は、あんな手紙を出したのは…君に知らせたいことがあったんだ」

「知らせたいこと?なんですか?」

「目が、見えるようになったんだ」

ごく何でもないことのようにさらりと言おうと努力はしていたが、アイザックの頬に薄く赤みが差す。彼女の反応をうかがうようにじっと見つめる。そこで、ようやくアストライアもアイザックが“見ている”ことに気がついた。

「まあ…目が」

アストライアが改めてまじまじと彼のくすんだ緑色の目を見詰めると、アイザックは照れ隠しの微笑を浮かべて上に目をそらした。

十余年前、アイザックがまだ七つの子どもだったころ、ひどい高熱を患った。三日三晩眠りつづけ、熱が引いたときにはもう彼の目は見る機能を失っていた。彼の両親は方々をあたったけれど、医者も錬金術師も司祭も、手の施しようがないと口をそろえた。

そんな話を、アストライアは出会って間もないころにアイザックから聞かされた。だから、彼が一人で家を飛び出したと聞いた時には胸がつぶれるほどに心配したのだ。

「君の姿を見るのは初めてだね」

しみじみとアイザックが呟いたので、アストライアは今自分が埃まみれの旅装だということを思い出した。顔を伏せる。

「すいません、こんな格好で」

「いや、謝らないで。呼び出したのは僕だし、それに…」

アイザックは何か続けて言いかけたが、口の中で濁してしまった。その代わり、明るい口調になって話題を変えた。

「それより、一緒に町の中を散歩しませんか、お嬢さん?歩き慣れた町だけど、まるで初めて訪れたようなのです」

「素敵ね」

アストライアはにっこり笑って頷いた。彼女は歩き出しながら、ごく自然に彼の手を取った。目の不自由なアイザックと歩くときには、いつもそうして手を引いていたから。アイザックは一瞬その手を強張らせたが、すぐにしっかりと握り返した。
 二人は並んで歩き出した。