◆エピローグ◆
夕暮れ時。弱々しい光の差し込むごく質素な客室、硬いベッドに座らせた女の肩口あたりを熱心に覗き込み、なにやら作業に没頭している白衣を着た背中が最初に目に飛び込んできた。 「やあ、思ったよりも時間が掛かりましたね」 医者は振り返りもせずに、ドアのところで立ち止まっている二人に声をかけた。 「退屈だったから色々と遊んでいました。クレアータって今までいじったことないんですけど、やってみると案外面白いものですねぇ。あ、ドア閉めてください」 二人といっても、それは女と彼女に抱かれた赤ん坊。女が後ろ手にドアを閉めると、ようやく部屋の主が振り返った。その顔には満面の笑み。まるでいたずらっ子のようだ。ベッドに座っている女と赤ん坊を抱いている女はそっくり…というのを通り越してまったく同じだった。顔も、髪型も、無表情も、着ている服も。ただ、座っている女は目を閉じていて、赤ん坊を抱いているほうは開いているというだけの違い。 「こんな風にしてみたんです」 いかにも得意げな笑みを浮かべたまま、メイフェアがぱちりと指を鳴らす。するとその音に即座に反応して、ベッドの上の女が目を開く。とたん薄暗い部屋に光条が走った。彼女の両目から一直線にまぶしい光が放たれている。その様はデクストラが射撃のねらいを定めるために使う道具《道示す光》そっくりだ。しかも光を放ちながら、彼女の首がくるくる回る。からからと微かで軽やかな音とともに一回転、二回転と。 「特に実用性はありませんけどね」 「ふん、甘いな」 それは異様な光景だったが、その場にいる誰一人驚かなかった。それどころか、鼻で笑いさえした。笑ったのは…女に抱かれた赤ん坊。 「それは元からついている機能なのですよ」 言いながらそのぷくぷくした小さな指を見事にぱちんと鳴らすと、彼を抱いているほうの女も同じように目を光らせて首をくるくる回し始めた。 「なんだ、残念。せっかく君のエレーナさんで遊んでやろうと思ったのに」 メイフェアはつまらなそうに口を尖らせた。が、すぐに真顔に戻る。 「で、首尾は?」 赤ん坊は黙ってもう一度指を鳴らしてうるさいクレアータの動きを止め、エレーナの胸元に手を突っ込んで一つの腕輪を取り出した。 磨いた銀の台に、大きくて青い不透明な宝石のあしらわれた、いささか無骨なデザインの腕輪。それを目にして、メイフェアは嬉しそうに琥珀色の目を細めた。 「さすがルードヴィッフィ君!やるときはやるんだから頼りになりますね。さあ、返してくれますよね?」 赤ん坊が短い腕を伸ばして腕輪を差し出す。その小さな手に重過ぎるように見える腕輪を、医者が受け取ろうと近づいたとき。 シャーン! 硬いものが割れる高い音。もうもうと揚がる湯気。メイフェアは慌てて手を引っ込める。ルードヴィッフィが空いた片手でどこから取り出したのか細いガラス管を無造作に逆さにしたのだ。中に入っている液体は《氷の世界》と呼ばれるもの。それに触れればいかなるものも瞬時に凍りつく。 「なにするんですか」 今度こそ医者は心底憮然として床を見下ろした。湯気の向こう、腕輪だったものは原形が分からないほど木っ端微塵になっていた。《氷の世界》をかぶってかちんこちんになったせいで、床に落ちただけの衝撃で砕けてしまったのだ。赤ん坊は無邪気そうに聞こえる声で笑った。 「まさか…」 上目遣いになって恨みがましく赤ん坊を睨むメイフェア。ゆっくり恐る恐るといった口調で問い掛ける。 「こんな危険なものは、世の中にあってはいけない、とでも言いたいんですか?らしくないですよ」 「さーて、どうでしょうね」 含み笑いの混じった答えを聞いて、大きくため息をつく。まあ、らしいといえばいかにもルードヴィッフィらしいではないか。わざわざ、目の前に持ってきて見せびらかしてから砕くなんて。 もう一度未練がましく床の上の残骸に目を落としため息をつくと、メイフェアは白衣を脱いでたたんだ。その下は上質な仕立ての学者が着るような服装だ。白衣の代わりに平凡で目立たない羊毛織のマントを羽織り、部屋の片隅にまとめてあった黒い革鞄を手にとる。 「まったく…君は師匠に対してやや批評的すぎじゃありませんか?」 「あなたは生徒になめられすぎですよ」 「とにかく、私はもう行きます。お互いもうしばらくは会いたくないものですね」 「ええ、それにはまったく同感ですな」 赤ん坊は再び無邪気にしか聞こえない笑い声をあげた。 背中を丸めるようにして出てゆくかつての師を見送ったあと、しばらく赤ん坊も彼を抱くエレーナも黙ったまま動かずにいた。夕暮れ時のオレンジの光が、黄昏のほの蒼い闇に変わるまで。 充分に時が過ぎた後、赤ん坊はおもむろに腕を上げ、自分のおくるみの懐から、一つの腕輪を取り出した。 銀の台は傷つき、歪んでいるが、あしらわれた青い宝石には傷一つ無い。 その淀んだ紺碧の石の表面に、赤ん坊のほくそ笑みが鏡のように映った。
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